目次

ヴィラ北軽井沢

1.高原の料理
偶然、その日、NHKの料理番組にゲスト出演した眞下氏に出会った。彼は牧場主であって料理人ではないが、広い意味で食品に携わっているので、高原発の食材について、さすがによく知っておられた。

2.むしろ北海道
たまたま初秋の取材なので、気持ち良い気候であったけれど、冬季の「厳寒期」は、札幌かそれ以上で、本州にいながら北海道の雰囲気がみなぎっているエリアである。

3.エルウィング
この辺から峰の茶屋を超えて、信州側の軽井沢にかけては、13階などという高層建築はめったに建たない。自然公園法2種に準じた規制をしているのと、 1000平方M単位の戸建て別荘が主流であるからだ。しかし、山岳の集合住宅の生活に慣れると、そうそう戸建てがいいとばかりも言えない。そうした意味で も興味深い。ちなみに近くの別荘のお客さまのご利用も多いとか。

4.地名の由来
なぜ、北軽井沢なのだろう。地名がすごく気になった。調べてみると、信州側の軽井沢とはまた別の長いながい歴史があった。
4b.噴火は収入減
浅間山の山麓はやせ地で樹木も思ったほど太くはない。樹木を切り開いて農地にするから、農業土木の機械がないと容易なことではない。ちなみに、江戸末期の石高を調べてみたら、とても厳しい現実があった。

5.応桑村の誕生
文字通りの寒村に収入をもたらしたのはシルクである。応桑という地名は、シルクで2つの村を豊かにしようと、庄屋が気合を入れた「地域政策」を反映した、新しい名前であった。
5b.北白川宮
軍服に使うウールを調達し、軍馬を育成してお役に立とうとした陸軍大将宮の開発の心ざしは、明治期の皇族の意気込みを感じさせるものがあった。

6.館林藩入植
浅間山麓の北東側一帯は「六里ヶ原」という。ゴルフ場だといくつ分になるかはともかく、名うての広大な寒村だった。上州館林藩の旧藩士が束になって取り組んでも、そう簡単には事は運ばす、早々うまくはいかなかった。

7.草軽電鉄
江戸時代はメインストリートであった中山道の軽井沢と、「草津千軒江戸構え」というほど栄えた草津を鉄道で結ぼうというのは、そう悪い話ではないのだが、なんといっても「事業化可能性調査」が甘かった。そのかわり東京はじめ都会にも多くのファンができた。
7b.草軽年表
ビジネススクール(大学院専門職課程)にふさわしい事例研究になるテーマである。なぜ、当時の出資者は儲かると判断したのだろう。ためしに解いてみては・・・?

8.法大大学村
中山道の軽井沢の繁栄ぶりを見て、法政大学総長らが別荘開発に取り組んだ。いまなお事業としては継続している。事業としてはひよこだと思いきや、開村以来、90年近く経過している。細いはずの事業地の樹木は、うっそうと茂り、独特の雰囲気を醸し出すように。

9.一匡社
独自のコンセプトで開発した珍しい別荘地である。自他ともに許す当時の文化人が、なんとなく英国の社団法人的カントリージェントルマンをまねた感じもしなくはない。この設計に、文化学院(東京・御茶ノ水)の創立者、西村伊作が関わっていたことも意味深い。
9b.西村伊作
あの当時、こういう人物も輩出したのである。
9c.戦後の山麓
超・寒村「六里ヶ原」も、戦後になってやっと芽が出た感じである。日本が豊かになったひとつの証左であろう。ただし、草軽電鉄は退場してしまった。そのかわり高原野菜が高い付加価値を実現してくれた。積年の努力がやっと実を結んだというべきか。

10.提案
原稿を書きながら考えたメモである。

11.大規模開発
これも覚え書きである。