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㈱リゾネットは当協会の「リゾネット」とは関係ない・・・e-Commerceを舞台にした新たな事案
 

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お知らせ

【戦後の浅間山麓開拓①】
 火山灰あふれる荒野の六里ヶ原が、見渡す限り、レタス畑やキャベツ畑に変貌したのは、既述の北白川宮の牧場経営、旧館林藩士の入植に続いて取り組んだ戦後開拓の成果である。先の草軽電鉄の事業は沿線の発展に貢献したとはいえ、その経営は成功とは言い難いが、開拓に伴う農畜産業は様々な苦労を経るも、結果的には成功したといえよう。
 そのむかし、NHKのラジオ放送に「尋ね人」の時間というのがあった。ラジオの聞き手が投稿し、復員兵、引揚者、シベリア抑留者、戦中の兵隊仲間など、その所在を尋ねる番組である。その外地引揚者が徒手空拳、ようやくの想いで帰国しても、GHQの支配、食糧難・住居難・就業難・インフレ…に加え、近親者の冷たい視線のもとで、帰国後の生活の容易なことではなかった。
 終戦後、深刻な食糧難を解決すべく、旧軍人・海外引揚者・戦災者を開拓事業に従事させ、もって食料を確保する国策があった。この間、入植者は21.1万戸、この制度が終わる75年で9.3万が継続、残存率約44%、既存農家105.6万戸の分も合わせ開墾施行面積44.9万ha(≒45万町歩)の成果を上げた。
 しかし個々に見ると、立地や規模、灌漑、気候、人間関係などの諸要因が相乗的にマイナスに作用し、営農放棄や全戸離村に至った例や、逆に、大規模な酪農や畜産、果樹・蔬菜の分野でブランドを確立した例、むしろ農畜産業より工場・ゴルフ場に適した例もあり、さまざまであるが、
 いずれの場合にも共通して、作業に多くの困難が伴っていた。戦後の入植・開墾に伴う経験のほかに、入植前の満蒙での苦労話に加わることも多く、そのエピソードは一様ではない。
 戦後開拓に30年間の顛末があるも、いま振り返ると、かなりのスピードで変化していた。45年の「緊急開拓事業実施要領」は未利用旧軍用地を開拓用に供したが、46年以降は自作農創設特別措置法により民間の未開墾地を国が強制買収し用地確保は進展したが、極端に言えば、農業未経験者を集団で軍用天幕や防空壕にいれ、ろくに食事もさせず、鋤と鍬を与えていきなり開墾を強要するようなものだから、離農者も多かった。この頃が一番大変であったのだろう。
 しかし47年には復員者等の対策から「次三男対策」風に変化した。終戦直後の混乱は脱したという認識のもとで「緊急」を削除し、入植者を選抜する本格的農業振興を目指した。55年は大規模化で世界銀行融資の根釧・上北パイロットファーム、57年に八郎潟干拓が開始。58年では戦後開拓は施策として完成視され、方針転換、61年は農業経営規模の拡大による自立経営の育成を狙い、既存農業者申請による自己調達農地で、畜産・果樹等を主眼とした農用地開発事業に変貌。63年ではむしろ不振農家には離農を勧告、69年は開拓行政を一般農政に統合(例・開拓農業協同組合の解散等)、75年に戦後開拓施策は終了し、逆に、減反政策がはじまった。
 戦後の六里ヶ原の農業開発も、その前史は、こうした枠組みのなかで揉まれたのである。
 
 【戦後の浅間山麓開拓②】
 ふたたび長野原町誌に戻り入植・開拓の経緯を要約してみよう。この部分の執筆者は、当地開拓農協の清水圭太郎。時期は1972(昭和47)と推定される。
 群馬の海外引揚者たちは、群馬県開拓自興会を結成し、第3の故郷(生まれ故郷→外地開拓先→引揚後の開拓先)を建設する運動に起ち上がった。「緊急開拓事業実施要領」による割り当ての結果、大屋原隣地(大字応桑字大屋原)に、第六次海倫群馬村と、第九次九道溝甘楽郷からの引揚者が入植した。海倫とは現・黒竜江省綏化市、九道溝とは黒竜江省黒河市北安市通北村と思われる。
 与えられた土地は前掲のように「日本農業経済の限界の外にある地域」であって、「熊が住むので里人に恐れられている熊川のほとりから、浅間山鬼押出しのすぐ近くまでの、三十年立ちの昼なお暗い落葉松林や、里人の刈り荒らした落葉松と白樺と熊笹の繁る荒野」という。こういう荒野の開拓は、普通に育った農業者には無理であって、寒気・異境・匪賊・病魔・略奪・迫害に耐えた外地帰還者こそが最も適するとし、開拓面積にはいずれ帰還するであろう拓友(在満中応召シベリヤ捕虜抑留者の分)も含めた。
 主には1926-29年に入植し後は補充して、全193戸(執筆時点で167戸)。総面積約1100ha(内耕地約700ha)。農地は戸当たり平均約3.8ha、宅地は戸平均20-25aを配分し、
 全員が貧乏で、厳しく長い難民生活に耐えた運命協同体的な体験がある人々の集まりであって、超インフレに味をしめた内地農家、封建遺制に見られた農業団体、富農層をバックとする指導層など、既製勢力が全く見当たらない特異集団と位置付けた。
 政府の示した営農類型(≒何を作るのか)は米、麦など穀物に偏りすぎ、北軽井沢には合わない。51年から輪作試験地を設置し試作を繰り返した。53-54年の冷害は、高冷地に厳しく、尋常一様の類型では実情にあわないことが明確になった。そこで、試作結果も合わせ、「村つくり五原則」を制定した。「村つくり五原則 一、草をつくり(草地農法)二、牛をつくり(酪農)三、土をつくり(地力増進/牛の排泄物)四、村をつくり(庶民階和)五、人をつくる(人間研成)」というもで、「酸性の高い痩せた火山灰土をして生産力高い土壌とする唯一の道」と考えた。
 48年、農協法施行の年である。既製勢力のない営農集団が、既存農家を再組織した一般綜合農協に加わることは。はなはだ難しいと考え、開拓農協・北軽井沢開拓農業協同組合を設立した。その精神は、開拓者による「村つくり」、「蜂の如く組み(協同)蟻の如く働く(開拓営農)」の拠点である。そのためには、①良教師、②良医師、③良牧師、④良技師が必要と考えた。具体的には、こどもの教育、家族の健康、真の宗教、実力ある生産技術者の充足である。
 たとえば、④良技術師とは、八ケ年酪農草創の基礎を作ってくれた中村昭吉獣医師や土屋獣医、小柴久生人工授精師、北海道出身の長野・中原畜産指導員の協力があって吾妻酪連が育って行った。そして、酪農に加え、躍進著しい高原野菜・椎茸、観光農業の目玉に林檎・花木等がこれに続く。
 原文執筆時点までの農協経営には、いくつか山場となる事件が続いた。①49年キテイ台風で新築家屋半数が全壊した。②53-54年連続冷害。これにより、当地のような二年三作地帯では収穫皆無、離農下山が十数戸に及んだ。③53年の失火による組合諸施設を焼失し、出資87万円に対し借入金480万円となった。この件で、農林中央金庫は北軽開協再起不能、組合長に辞職勧告を求めたが、ⅰ出資金増額・赤字解消・据置貯金など諸計画の達成祈念、ⅱ草地農法酪農併行し高冷地野菜裁培の強化、ⅲ長年懸案の「地区画変更」の実施(予定入植戸数65を56に減、既入植33戸の移築で土地の再配分)で再挑戦した。④59年七号台風、伊勢湾台風による建物・設備の損害があった。⑤60‐67年の「農業機械化実験集落」は、各種農業機械を数多く導入し農業近代化への契機になったが、実験の当事者には無理が祟り毎年離脱者が出て、その修復に苦慮した。
 しかしこうした危機を乗り越え、67年には朝日農業賞(高冷地酪農と高原野菜の営農確立)、農政局長賞(開拓成績優秀)に浴した。
 この物語は延々と続くが、明治維新このかた150年。この外地引揚者による入植・開拓は、六里ヶ原における最大の快挙ではなかろうか。
 事業の経営とすれば、草軽電鉄がダメで、この入植・開拓が良かったのは、一体なぜなのか。ヴィラ北軽井沢エルウィングに数泊重ね、13階大浴場「南湯」「西湯」で想像を繰り返せば、行く末に、飛躍のためのなにか重要なヒントを与えてくれるかもしれない。