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㈱リゾネットは当協会の「リゾネット」とは関係ない・・・e-Commerceを舞台にした新たな事案
 

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お知らせ

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【応桑村の誕生】
 ヴィラ北軽井沢エルウィング最上階大浴場の眼下に見える大字軽井沢の集落は、江戸末期は狩宿村と小宿村であった。1875(明治8)年に合併して応桑村になり、1889(明治22)年の合併で長野原町ができ、長野原町大字応桑となる。それが98年間続いたあと、1987年に応桑の一部と他の大字の一部を加え、「大字北軽井沢」になった。
 90年バブルの真っ盛りの折りに応桑は北軽井沢になったのである。この頃はリゾート開発ブーム、この地に多くの開発プロジェクトが検討されたことと、そうそう無関係ではなかろう。
 応桑村の名称は自然発生的ではなく意図的に決められた。明治8年、新しい村の誕生の折りその名を決めるとき、洒脱というか切実というか。栃原秀次郎なる戸長が「養蚕の大当りを念じて」、まさに応桑と名付けたものである。
 応桑村の前身は狩宿村と小宿村であり、狩宿は江戸幕府直轄領で高崎の岩鼻代官所の管轄で107.6石、小宿は前掲小栗九郎左衛門の知行地の一部で113.2石であった。戸長とは1872(明治5)年の太政官布告により廃止された旧来の庄屋・名主にかわるものである。高々220石の名主の栃原としては、村人は米では食えないことを知っていたから、蚕糸絹業、ことに蚕糸業に注目、それで蚕に食させる桑の葉の生い茂ることを念じたと思われる。
 江戸初期、両村を含む吾妻郡73か村はすべて沼田の真田伊豆守の領地であった。上田の真田本家と沼田の分家を結ぶ「信濃街道」の整備に注力したという。上田から真田氏発祥の地を経て鳥居峠を越え、田代・大笹(現・嬬恋村)を通り、羽根尾から長野原草津口・川原湯温泉(現・長野原町)、中之条町、高山村を抜けて沼田に至る。Google MAPによれば、なんと95kmもある。
 江戸幕府はこの信濃街道の大笹と、中山道・沓掛(現・軽井沢町)と草津温泉を結ぶ仮称・ななし街道(現・ロマンチック街道)の狩宿(現・大字北軽井沢)に関所を設けた。このほか、この道から須賀尾峠を越えて高崎に抜ける草津街道の途中の大戸にも関所を設けた。不便この上なく、明治期に撤廃されるのは言うまでもない。
 鎌倉幕府の頃は三原庄に属するが、両村が属していた吾妻郡自体が、碓氷郡(≒安中藩)か群馬郡(≒高崎藩)に属していたという説もある(長野原誌が応桑村史を引用)。仮に碓氷郡とするならば、名もない街道沿いではなく、立派な中山道沿い、いまの道路でいえば、当地はJR吾妻線ないし国道145号線(長野原町から沼田至る一般国道)よりも、JR北陸新幹線ないし国道18号線(高崎から軽井沢や長野経由上越至る一般国道)の沿道にあるほうが、あるいは都合がよかったのかもしれない。
        
 【域外からの投資】
 わずか220石程度の寒村・応桑村が、後年、開拓されて豊かな農業を産み、開発され、かかる別荘地に至る。その転機は何であったのか。
 おそらく4つのエピソードが関係すると思われる。①北白川宮の畜産振興とそれを引き継いだ人々の存在、②士族授産で館林藩の旧藩士が入植し、最後まで生き残った倉田・山下の後継者の働き、③秋元子爵(旧舘林藩主)の別荘、一匡社による一匡邑(むら)、松室法政大学総長による大学村、草軽軽便鉄道(後・草軽電鉄)の開通、それらが誘発した諸開発プロジェクトの展開、④大東亜戦後の満蒙開拓引揚者…名の受け皿及びその後継者の活躍がある。
 一方、信州側の軽井沢にも開発の話が持ち上がる。軽井沢開発の発端は1886年のA.C.ショー(英国公使館の建築技師兼宣教師)の保養地への着眼となっているが、その前史がいくつかあり、1875年の鳥居義処による313町歩の官民地取得、1882年の稲葉正直(小諸藩家老)による長尾原牧場、1883年の雨宮敬次郎の官民地計1100町歩取得、同年川上操六(陸軍大将)の矢ヶ崎牧場計画である。
 1878年に地租改正があり地券が発行されるが、痩せ地でカネを産まないため、地代3%を金納できず、地券を放棄する例は少なくなかった。こうした事情は応桑村も同様であったかと思う。この年に明治天皇が672名の官僚を伴い、北陸東海地方を巡幸、軽井沢宿で昼食、追分宿で宿泊があったが、あるいは、応桑村も皇女和宮関東下向のときのように、人・馬を供出したかもしれない。
 要は、応桑村はじめ六里ヶ原の開発は、後年、軽井沢の名称にちなんだのとは異なり、信州・軽井沢とはまったく別個の経緯をたどり展開していったのである。
 
 【閑話休題・きたかる誌のこと】
 「北軽井沢じねんびと」のホームページが印象に残ったのは、ここから『きたかる』という小冊子をダウンロードしたことによる。
 「北軽井沢じねんびと」のホームページ→ 
  http://jinenbito.jp/
 最初は、どこかの広告代理店の子会社か何かが編集した、たぶん面白くもない観光地のミニコミ誌とみなして、食指が動かなかった。しかし、案に相違し、この「きたかる」は内容が良く、きわめて充実しており、とても片手間で出来る代物ではない。まずはこれを読めば北軽井沢のことは理解できる。むしろ、わがホームページはあえて制作の要なしとさえ感じたくらいだ。いったい誰がこういう読み物を作ったのか。興味津々であったし、関係者には一度会ってみたいと思った。
 実はこの雑誌はいま3号まであって、ホームページからは1号と2号がダウンロードできる。1号が北軽井沢コンソーシアム協議会、2号が北軽井沢じねんびと、3号が群馬大学(以下群大)社会情報学部社会学研究室が発行したとある。
 また、それぞれの企画・編集・制作は、群大社会情報学部+C、北軽井沢じねんびと、群大社会情報学部社会学研究室とあり、3号では「群大の平成23年度地域貢献事業による」とあった。      
 北軽井沢コンソーシアム協議会は、産(北軽井沢観光協会等)、官(長野原町)、学(群大)がメンバーとなった北軽井沢地域を調査研究する会で、2009年5月から11年4月まで活動したもので、以降は、住民組織の「北軽井沢じねんびと」に引き継がれているという。
 後に登場する眞下豊はその運営委員で「わくわくフェスタ」実行委員長とある。

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