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関東通産局は、特定商取引法に違反する行為により、リゾートクラブを含む複合会員権を連鎖販売する㈱リゾネットに対し、15か月間、業務停止命令。会員を勧誘したら儲かるとか、会員はいつでも割引で泊まれるとかには要注意!
㈱リゾネットは当協会の「リゾネット」とは関係ない・・・e-Commerceを舞台にした新たな事案
 

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略史5


09★幕府の補助金行政 

 かくして、やっと事件は収束した。もっと詳細に語ると興味深いのだが割愛して先に進む。亀五郎は論外だが、大原彦四郎の「大原騒動」のとき、幕府は郡代の上申を認め、飛騨に「山方買請米」制度を制定していた。1772(明和9)年に、「南方48カ村に対し安石代山方買請米として、毎年8500俵(3400石)払下げの許可が出た」のである。高山の町人宛の「人別買請米」と共に幕末まで継続した。
 領民のメリットは、この払い下げの代金が、ときの米相場の平均値(安石代)よりも安いことにある。領民はこの米を相場よりも安く買って、それより米相場どおりに売り、その差額を稼ぐ。これを幕府は黙認していた。
 安石代とは、年買代金納の基準として、「美濃の八幡、同苗木、越中の富山、信濃の福島及び飛騨の高山の5カ所における10月15日から晦日までの、上中下一一一段の平均をとって価格をききあわせ決める」ことなのだが、菱村の所見では、「五カ所へ聞合せの前に手をうって低い価格に申し立たせたので時価より極めて割安」な価格となる。「大体市価の三分の一乃至は四分の一程度」という。このサヤ(鞘)がどう配分されたかは、菱村の研究をご高覧いただきたい。
 いずれにせよ、まさに「一大救恤」、いささか手厚すぎの感もあったので、歴代の郡代は問題視していたようだが、大原騒動で懲りたためか誰も手を付けなかった。どうやら補助金統治であった。たぶん、規則通りに徴税して、それが苛斂誅求と農民に映り、一揆を招いて鎮圧する方にコストをかけるより、適度にカネを配って、山あいで働かせた方が、幕府の財政にプラスと判断したのであろう。
 明治維新後、初代知事梅村速水が、この補助金制度を改革しようとして大騒動を引き起こすまで、うまく機能したというべきである。
 高山の領民にとって、明治維新はあるいは迷惑だった・・・、江戸幕府によるいわば「補助金」によって生まれた市民の消費力が、高山の古い町並みを支えていた・・・のかもしれない。少なくも、高山の街を持続させた補助金の効果は少なくないように思われる。いかがであろうか。

 

 

 10★「豪商」たちの商い 17

 高山で古い町並みが持続したのは、かっての豪商(あるいは大店)の力量によるところが大きいともいう。しかし、しょせんが「下々の国」であるから、飛騨という地域の経済力だけでは限界がある。高山の「豪商」たちは、どのような商いをしていたのであろうか。
 高山では、一之町の矢島家(先祖が金森家と懇意)、二之町の川上家(先祖は金森家家臣)、三之町の屋貝家(先祖は不詳)が代々町役を務め、町を仕切ったようだ。
 矢島は阿多野や久々野など金森領内で「材木山稼ぎ」商をしていた。伐採から販売まで一手に商う御用商人であった。ある時期、榑木(クレキ・江戸中期では椹(サワラ)・ヒノキ・鹽地(しおぢ)で割りたてた屋根板のこと)で失敗し、天井板と白木を扱うようになった。1840(天保11)年に材木商を廃業、塩問屋専業になった。
 川上は肴万問屋(さかなよろずとんや)である。1688(貞享5)年免許を受けたとあるから、何らかの商いを独占していたのであろう。万問屋とは、多分、荷受問屋(委託商品を2次問屋・仲買に販売し口銭を得る)であり大問屋を意味する。
 屋貝は銀吹所、銀の精錬業者である。管内の鉱山から採れた各種鉱石を精錬し、銀というよりは、主に銅を取り出したほか、内々、銅線などの細工品も製造していた。
 以上は、町年寄であるが、これ以外の「豪商」に、永田家(大阪屋)がある。酒の醸造家で、明治維新の時点で、高山最大の地主であったという。
 

 
 
 
*大坂屋の屋敷図(高山市博物館藏)