【パウエル箱根の買収と展開】
*佐々木亨の登場
昭和53年に佐々木亨(現会長)が、21年勤続した三菱商事を退職して、東京信用販売に転職してきた。海外経験も長く合理的な判断のできる人物である。

佐々木は1部屋当たりの会員数を14名に限定して、対外的な信用を図ることが、この事業を推進していくにあたり重要なことであると考えていた。従ってクラブの会員が増えれば、客室数も当然に増えるものと考えていた。
東京から2時間ないし3時間の範囲で、温泉と眺望にこだわり、いい場所に施設を増やそうとした。伊東パウエル以降の施設の展開は後掲の通りである。

会員の増加に施設が追いつけない状態が続いた。やむなく、既存施設を買収することもあった。アップルから塩原の施設を買収した。施設を展開していくと、なんとしても箱根に施設が必要という結論に達した。あれこれ探しているうちに、三菱商事の友人から「出物がある」と紹介された。これが現在の箱根パウエルとの接点である。
*湖尻富士見荘の買収
その出物は「湖尻富士見荘」と称し、レンタカー会社の日産観光サービス㈱が所有、経営していた。交渉の結果、1986(昭和61)年に東京信用販売は、これを買収し、改修の上、新たな施設を増築することになった。したがって箱根パウエルは1986(昭和61)年の開業である。1985年の「プラザ合意」の後を受けて、まさしくバブル前夜、佐々木としては絶妙のタイミングであった。
その時点では、既存の本館、西館、東館が存在した。本館と西館はいつできたのかよくわからない。東館は昭和38年に竣工している。
契約書には「1億700万円」で大成建設が請負、三菱地所が設計監理をした。この東館は山一証券の研修施設であったと言う。
もともとの施主の土田三郎は、1957(昭和32)年11月25日の山一証券第17回定期株主総会で取締役に選任されていた(渋沢社史データベース)。その後の経歴はいまのところわからないが、退任後の事業であったのかもしれない。しかし、用地の選択、前庭の植栽、眺望の取り方、建築物のたたずまいの作り方などから、土田の開発眼はかなり確かなものがあったと推定される。
先行した土田の端げいすべからざる開発眼を継承し、箱根パウエルは、戦後昭和のレトロな雰囲気をいささかならず保持しながらスタートした。それは、大団体大宴会好みの温泉旅館と、確実に、一線を画すことになる。
余事ながら、土田と同時に、山瀬正則が取締役に就任している。山瀬は山一證券株式部長で、1967年6月のスエズ運河閉鎖(第三次中東戦争、イスラエルとエジプト、シリア、ヨルダンをはじめとする中東アラブ諸国の間で発生した戦争)のさい、海運株の買い方(この戦争は短期に集結したのでは大敗し、投信部長に配置換えになった)として令名をはせた人物である。なお、このときの売り方は石井久(立花証券の買収で、後に同社会長)であった。■■