◆緊急告知

関東通産局は、特定商取引法に違反する行為により、リゾートクラブを含む複合会員権を連鎖販売する㈱リゾネットに対し、15か月間、業務停止命令。会員を勧誘したら儲かるとか、会員はいつでも割引で泊まれるとかには要注意!
㈱リゾネットは当協会の「リゾネット」とは関係ない・・・e-Commerceを舞台にした新たな事案
 

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2:オテル ド マロニエの所在地


2:オテル ド マロニエも崖の斜面に立つ

 
 マロニエの所在地は岐阜県下呂市萩原町西上田2259-9である。湯之島ではないことはもちろん、ついこの前までは下呂町でもなかった。しかも、山のなかの急斜面にして北の外れである。だから良かったのだ。
 水明館、下呂観光ホテルも幸田地区にある。湯之島のど真ん中ではない。だから立地できた。また、下呂駅(現JR東海)も幸田地区だった。

 【07】A:マロニエ、B:下呂観光ホテル、C:水明館 D:湯之島館
 
 
 マロニエはこの立地でずいぶんとトクをしていると思う。つまりは湯之島・森・幸田が繰り広げる1000年の騒動から超然として、もっといえば下呂温泉三国志ならぬ「下呂三湯伝」を高みで見物できる。これは特権である。この特権は実にマロニエの会員のものでもあるのだ。
 争いのタネは土地よりも、益田川の河原に自然湧出する温泉であった。この温泉を湯之島・森・幸田という3つのプレーヤーが狙う。森は新開地だから、かって湯之島のあった2つの派閥の薬師派と白鷺派とそして幸田が狙う。
 薬師と白鷺は1953年に統合する。以降はひとつに数える。
 争いに勝ち、維持するにも、時間とカネがかかる。そのコストは最終的には温泉客が負担する。お客にしてみれば負担の割に中身が伴わない。温泉の帰属は旅館経営者には死活問題だが、客にしてみれば、よほどストアロヤリティが高くないかぎり、関係がないことなのだ。
 マロニエは幸田の先の北のはずれの山中で、幸田との関係は薄い。しかもマロニエの開発者は目先が利いて河原の源泉を2本買収した。しかも、いま一本しか使っていない。万々が一にそなえ、三湯伝の外側に立っていた。あるいは第四湯として登場する資質を備えているともいえよう。これはオテル ド マロニエの共有持分者としてのメンバーのメリットでもある。
 
 
 

 
なお、下呂温泉三湯の略史は、「飛州下呂三湯伝」として、以下の内容で別のページに展開します。
 「飛州下呂三湯伝」はここをクリックしてください。 
 
 
 1 投資不足と知名度不足を嘆く下呂町
  鉄道開通と外資導入で復活した湯之島 終戦後8年目の下呂町長の想い
 2 下呂を高く評価したのは林羅山ではなく万里万里
  下留(したどまり)駅がなまって「げる」→「げろ」→「下呂」に  万里集九(ばんりしゅうく・僧侶で漢詩人)による下呂温泉賛歌  羅山は万里を引用しただけ
 3 洪水に悩むも江戸時代は好調、維新後に低迷?
  「湯番」は土地の派生商品  1825(文政8)年大洪水・幕府財政難で公的援助なし・・・  1875(明治8)年大洪水と幸田の逆襲  幸田はツイていない
 4 大正期の第一回外資導入の失敗
 下呂三湯の「外資」導入 河原の温泉に所有権を認めず 小林重正を除名、しかし湯之島の温泉占有?は容認 湯之島の分裂
 5 昭和初期の第二回外資導入は成功
 名古屋・岩田武七とのアライアンス・・・掘削動力揚湯と内湯の普及 滝多賀男の登場・・・幸田の開発 湯之島が反対しても幸田で掘削ができた 終戦時の下呂温泉
 6 既得権の確立
 湯之島に温泉シンジケート成立 温泉権利の調整と幸田地区 源泉の評価
 7 つぎのイノベーションは?
 下呂温泉という商品ライフサイクル
 

3:マロニエ事始め、日本人は余暇志向すべき・・・、創業者の周囲は大反対

 マロニエの創業者は1930年生で83歳。現会長である。中部圏で集合住宅などの企画・開発をする不動産事業を営んでいた。マロニエの創業は、1985年頃、日本人は働きすぎ、休暇が少ない、余暇社会を志向すべきという批判が、ドイツはじめ海外からのバッシングに端緒があるという。これからは、いずれ余暇時代にはいる、それなら余暇時代に対応する事業をやってみようと考えた。
 たまたま、ロータリークラブのメンバーから下呂に用地の紹介をうける。懇意にしている設計家がホテル事業に適しているという。実際に現地を見ると、ホテル用地にぴったりだったので、ここでホテル事業をやってみようと心密かに決めた。
 内々に周囲に話してみると、下呂は名古屋から遠い、この人手不足のときに従業員が集まらない、よって運営が難しい、大体いま儲かっているのにこんな事業をやることはない・・・と消極意見が続出した。要は全役員が反対であった。
 しかし、下呂は杤本の在所、未だに実家が残っている。親戚縁者に声をかけて従業員を集める自信はあった。「下呂なら何とかなる」と判断して、事業化の「のろし」をあげた。話を聞きつけた第一勧業銀行と鹿島建設の営業担当者が来訪し、名乗りを挙げてくれた。事業化にはいい時代だった。1987年に下呂の用地を取得し、1989年にオープンした。レストランも料理長も親戚縁者が運営してくれた。それでも足りないときは、子供のころ一緒に遊んだ幼なじみに応援してもらった。

 【08】)1989年12月29 日日経ダウ史上最高値38 915円.
 
 後からわかることなのだが、ちょうどバブル経済の頂点だった。会員権はよく売れた。1次・2次ともに完売。3次で完売になりそうだったが、多少残しておこうと考え、100口分を売り止めにした。三越・名古屋店の外商部門が、顧客の紹介を通じて、会員権の販売に協力してくれた。
                                                                                    
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