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関東通産局は、特定商取引法に違反する行為により、リゾートクラブを含む複合会員権を連鎖販売する㈱リゾネットに対し、15か月間、業務停止命令。会員を勧誘したら儲かるとか、会員はいつでも割引で泊まれるとかには要注意!
㈱リゾネットは当協会の「リゾネット」とは関係ない・・・e-Commerceを舞台にした新たな事案
 

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【資料】リッツパリ略史

 1:セザール リッツ(César Ritz)のおいたち

1699年:ヴァンドーム広場建設再開。ルヴォア侯爵(Francois-Michel le Tellier Louvois、ルイ14世のフランス国務長官、1641~1691年)により着工創設するも資金不足で中断。 
1702年:アントワン・クロザ(Antoine Crozat、大商人、シャテル侯爵、1655~1738年)が小規模なホテルを建設、「クロザットの家」、
1705年:アントワーヌ-フランソワ・ビタウト・ド・ヴァイレ(Antoine-FrancoisBitaut deVaille、ヴァイレ藩主、大評議会顧問)、ヴァンドーム広場でオテル・ド・ヴィレット、オテル・ド・コニー、オテル・ド・グラモント(Hotelde Gramont)を1万3500リラで購入。ファサード設計ジュール・アルドゥアン=マンサール(Jules Hardouin Mansart、1646~1708年、ルイ14世の首席建築家)。
1738年:クロザット死去。建物(含隣接ホテル)は売却。
1850年:セザール・リッツ(Cesar Ritz)、スイスヴァリス州東部ニーダーヴァルトで誕生。ドイツ系。13人兄弟末子。寒村で冬季5カ月は雪。
1854年:ペレール兄弟(Jacob‐Emile Pereire、1800‐75,弟イザクIsaac Pereire、1806‐80、クレディモビリエ金融Societe Generale de Credit Mobilier・一時はロスチャイルドの競合先の創業者)が取得し、同社本社、後のラザン館。
1865年:セザール15歳、ヴァリス州内語学学校に在学。後、地元ホテルに雇用。
1867年:セザール17歳、パリ万国博覧会スイス館で給仕。
1870年7月~71年5月:フランスとプロイセン王国の間で戦争(普仏戦争)。ゾウ2頭を買いソーセージを販売。有名に。フランス敗戦。
1870年:セザール20歳、パリのthe Voisin(一流レストラン)で支配人に抜擢。
1873年:セザール23歳、ウィーン万博スイス館で給仕。
1877年:セザール27歳、南仏ホテルで経験を積む。リビエラのレストランで給仕。モンテカルロのグランドホテルの支配人。1年で収益を倍。コレラ発生。衛生面に強い関心。客室にバス・トイレ完備、室内清掃合理化。
1880年:セザール30歳:スイスのグランド・ナショナル・ホテルの支配人。イベントで販促。以降、夏季はリビエラ、冬季はスイスのルツェルンで働く。
1884年:セザール34歳、オーギュスト・エスコフィエ(Auguste Escoffier仏料理の創案者、以下エスコフィエ)をモンテカルロのグランドホテルの料理長に。プリンス・オブ・ウェールズ(後のエドワード7世)がパトロンに。
1888年:セザール、エスコフィエとバーデンバーデンにレストランをオープン。1889~1897年まで営業。
1888年:セザール38歳、結婚。カンヌのオテル・ド・プロヴァンス、ドイツバーデン=バーデンのホテル・ミネルヴァを買収。
1889~97年:リッツとエスコフィエはリチャード・ドイリー・カートが経営するサヴォイ・ホテルの初代支配人とシェフに就任。得意客にエドワード皇太子など。
1889年:セザール39歳、ロンドンのリチャード・ドイリー・カート(Richard D'Oyly Carte、英の興行家・劇場経営後にホテル経営)の要請で、エスコフィエとともにサヴォイ・ホテルに関与。
1891年:セザール41歳、イタリアローマのグランドホテル(現セントレジス・グランドホテルの全身)設計。

 2:リッツパリの創業期

1896年:リッツ・シンジケート(Ritz Syndicate Limited)設立
1897年:サヴォイはリッツとエスコフィエを解雇。金銭不祥事や時価3400ポンド以上のワイン・蒸留酒を紛失。サヴォイの顧客はパリでのホテル開業を推奨。
1897年:セザール47歳。パリのヴァンドーム広場をホテル用地として注目。リッツ・シンジケートは投資拒否。リッツ個人が、アレクサンドル・マルニエ=ラポストレ(Alexandre Marnier-Lapostolle、酒造家、オレンジ風味コニャックリキュールGrand Marnierを発明)の援助でオテル・ド・グラモント(前掲)を購入。
1897~98年:リッツ、建築家チャールズ・ムエス(Charles Mewes)に当初の1705年の建造物の更新を依頼。コンセプトを巡って半年間議論。各階にエレベーター、客室に電気・水道・バスルーム・電話完備。159室。スタイルはバロック。①:コンセプトは、裕福な顧客に「王子が自分の家で望むことができるすべての洗練」を提供すること。②:革新的な衛生基準を適用(全スイートに浴室、採光・カーテンと用具の工夫)、③:英仏顧客にふさわしい古風な魅力を採用。④:Marcel Proust、F..Scott Fitzgerald、Ernest Hemingway、King Edward VII、CouturierのCoco Chanelらが自宅代わりに利用、スイートの名称に転用。
1898年6月1日:リッツパリ、開業

 3:1898年6月1日オープン披露招待者や出資者から

 セザール リッツはエドワード7世のお気に入りではあるが、それはそれとしてどういう人物と交流があったのか。1898年6月1日オープン披露招待者や、リッツの事業に出資したと推定される人物をふたりほど抽出して追ってみた。
 ひとりはアルフレッド・ベイト(Alfred Beit 1853~1906)である。セザールとは3つ違いである。このリッツパリなのか、あるいはリッツパリを拒否したリッツ・ホテル・シンジケートのほうかは不明なのだが、資金提供者のなかにこのベイトがいる。彼はハンブルグ出身のドイツ人、あまりパットしない鉱山学者だったらしい。しかしジュール・ポルジェ(Jules Porges & Cie・パリの本社で南アフリカダイヤモンド鉱山事業の先駆者)に雇用されおり、採掘の才が評価され現地で派遣され活躍、南アフリカのダイヤモンド鉱山(Central、Dutoitspan、De Beers)の採掘権をもつまでに至ったひとりである。
 その足跡は容易に要約できないがひとつあげると、いまは著名なデビアスも1883年にはロスチャイドとならび、このベイトの支援も受けてキンバリーと合併、新デビアスはダイヤモンド生産のシェア90%を握るに至ることになる。リッツパリの開業6年前の出来事であった。
 逝去時の財産は、不動産だけで804万ポンド。1906年7月の外為相場は参着払(支払地に為替手形到着時時点で外貨払い)で、1円につき2シリングとある。1ポンドは20シリングだから10円。8040万円。日本の国家予算が5.3億円。あとはどう推定するかだが、単に億3ケタ円なのか兆の単位には届くのか、あるいはビルゲイツ並みの兆2ケタ円か。未婚で子どもはいないという。篤志家であった。
 ・・・ 
 リッツパリのオープンは1898年6月1日。その披露パーティにはそれこそ西欧のエリートが集まったのであろう。Lady de Grey(グレイ嬢), Duke and Duchess de Rohan(ロハン公爵夫妻), Calouste Gulbenkian, そして Marcel Proust(マルセル・プルースト・世界的作家)などとある。
 せっかく例示されても筆者にはピンとこないが、ふと、Gulbenkianとは、あのアルメニア人のオイル商人カルースト グルベンギアン(1869~1955 Calouste Sarkis Gulbenkian)のことかと思って、いくつか検索してみたら、リッツ(1850~ 1918)とグルベンギアンは20歳くらい歳は違うが、友人でもあったし、あるいはリッツパリにいくばくか出資していたかもしれない。
 リッツは富裕層をしっかり掴んでいた。グルベンギアンの足跡に触れるとまたキリがないので略述にとどめるが、オスマン帝国首都コンスタンティノープル (現イスタンブール )のオイル商人の家に生まれ、フランスの高校に通い、ロンドン大学キングスカレッジで化学・鉱山学を学ぶ。1895年から石油事業に参入、97年にイスタンブールからロンドンに移り、1902年国王立石油公社とシェルの合併、07年にロイヤルダッチとシェルの業務提携に関与、在ロンドン・パリのトルコ大使館財務顧問、トルコ政府財務顧問、トルコ国立銀行役員、1912年トルコ石油の創設に関与、メソポタミアのオスマン帝国領土における石油探査と開発権の共同調達コンソーシアムを主宰する・・・という風に大活躍に至る。その階段を登る過程でのリッツパリのオープンであった。
 自らの方針は「小なるものの大粒」ではなく、「大なるもののひとつぶ」こそ肝要とし、いつも全株式の5%を確保することを旨とした。彼はロンドンのほかにパリをもベースとし、1942年に戦火を避けポルトガルに移住、1955年に没する。
 ところで、ダニエル ヤーギンの「石油の世紀」では、
グルベンギアンは、社交嫌いで、数少ない友人のひとりにセザールがいたとある。それでリッツパリに住まいし、美術品や自然の美を愛し、また、節食・摂生に徹した。日にボルドーワイン1/4瓶の1/4を飲用、肉は120g、魚は150g、タバコは昼夕食時に各1本。エスコフィエ影響下のリッツパリのレストランは、彼の節食・摂生に付き合ったことになる。まさに「会員制」の萌芽というか極致というべきか。
 そして、ブローニュの森で散歩を欠かさず、5キロ歩くと、お付きが運転する時速5キロのロールスロイスがクラクションを鳴らす念の入れようだ。リッツパリから
ブローニュの森までもクルマで5-6キロほどで着く。このライフスタイルは、まさしく「都市リゾート」である。
 遺産のひとつにグルベンキアン美術館(在リスボン・ ポルトガル語 Museu Calouste Gulbenkian)がある。商いの成功のつど、その記念に「唯一の最高」の絵画を買った。アルメニア商人・欧富裕層の真骨頂ともいえよう。
 右図:若い女性の肖像画 、ドメニコ・ギルランダイオ(Domenico Ghirlandaio、1448~1494、イタリア・ルネッサンス期の画家)1490。
 ヴィラデスタもリッツパリも美術品の宝庫であった。美術品はそういう役割もっているのだと、筆者は今頃気付いた次第である。

 4:開業後WWⅠを経てWWⅡ終戦まで

1904年:ピエール‐ジョルジュ ジャンニオ(Pierre-Georges Jeanniot,1848-1934,スイス・フランスの印象派の画家)が、ガーデンテラスでのディナー光景を描く。
1910年:建物拡張。
1912年:番外 
ヴェルナー・ゾンバルト(Werner Sombart)が「Liebe, Luxus und Kapztalismus」を刊行。金森誠也訳「恋愛と贅沢と資本主義」が講談社学術文庫に収められている。このころのリッツパリのマーケットを知る意味ではよき参考書になろう。
1914年~1918年:第一次世界大戦。リッツパリは赤十字の軍事病院。
1918年:セザール68歳。リッツ死去。チャールズ・リッツ(Charles Ritz)が継承。
1919年:パリ平和会議に参加のルーマニアのマリー女王、家族連れで宿泊。
1921年:Ritz Bar、Bar Vendome、Bar Hemingway、Pool Bar設置。フランク・マイヤー(Frank Meier、生年不明~1947年)が活躍。
1926年:アーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)『日はまた昇る』。
1926年:ノエル・カワードの戯曲『セミ・モンド』。高級ホテルのパブリック・スペースを舞台に、抑圧を解かれた異性・同性・両性愛の男女の恋愛模様を描く。
1930年:歴史的建造物指定。
1934年:カフェ・デ・ダムはPetit Barに改名しました。
1935年:エスコフィエ死去。
1940年:ドイツ人によるパリの占領。ナチの空軍はリッツ従業員450人の一部を雇用。故リッツ夫人(Marie-Louise・スイス人)のためホテルは"中立領"扱い。独空軍司令官ヘルマン・ゲリングが滞在、ラブストリーがあった。その他種々エピソードあり。

 5:WWⅡ終戦以降からエジプトの事業家による大改装を経て

1944年:終戦。リッツは通常営業を目指して再開。
(注)以下に登場する小説や映画などの著作物は、リッツパリの常連客である著作者の著名作品か、あるいは作品のなかでリッツパリが背景や舞台となったものである。
1951年:ジェリーマリガン(ジーンケリー)(Jerry Mulligan(Gene Kelly))『パリのアメリカ人』上映。
1956年:チャールズ・リッツ(熱心な釣り愛好家)、レストランL'Espadon(The Swordfish)開業。(注)Swordfishはメカジキ。エスコフィエからのヒントで「現代に合わせた伝統的フランス料理」の提供。
1957年:アリアン(午後の恋)、Ariane (Love in the Afternoon)上映。ビリー・ワイルダー(Billy Wilder)、フランク・フラナガン(ゲイリー・クーパー)(Franck Flannagan (Gary Cooper))ら出演。
1957年:パリの恋人(Funny Face)上映。オードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)主演。
1963年:007 ロシアから愛をこめて(From Russia with Love)上映。原作は1957年ジョナサン・ケープ刊。
1964年:ヘミングウエィの自叙伝『パリは、ごちそうさま』(A Moveable Feast)の原本刊行。紛失したヘミングウェイの1928年のメモが、自ら1956年に発見され、本人死後、未亡人のメアリーによって刊行。俳優チャーリー・チャップリン、スタイリストココシャネルが30年以上リッツに居住していた。
1966年:100万ドルを盗む方法(Comment voler un million de dollars)上映。監督ウィリアム・ワイラー(William Wyler)。オードリー・ヘップバーン主演。
1970年~:旅行雑誌のHolidayの1977年2月号でリッツについて紹介。すべての国家元首たちが、「実際のところ、ダウンキルトと最上級リネンシーツの間で眠り、15フィート(4.6メートル)の高さの天井の下で、巨大な二重窓を通して、エレガントなヴァンドーム広場を眺めた」経験を持っている。
1976年:Roland Kursner(キャビネットメーカー)が壮大な階段を修復。黒い錬鉄製の手すりを銅製の手すりで覆い歩行部分は真鍮製のバーで固定。
1976年にチャールズ・リッツが亡くなった後、ホテルはゆっくりとした衰退期に入った[16]。それがその光沢を失うにつれて、顧客は減少し、資金が流出し始めた。
1976年:チャールズ・リッツ(取締役会議長)死去。株主間の対立と投資不足の顧客は高齢化し勢いは退潮。
1979年:チャールズ・リッツのモニーク未亡人が、エジプトの事業家モハメド・アル・フェイド(Mohamed Al-Fayed)に2000万ドルで売却。
(注)売買額は正確かどうか不詳。
1980~87年:フェイドは平常営業のまま、約10年間、2.5億ドルを投資、建築家のバーナード・ゴーシェレル(Bernard Gaucherel)を起用して全面改装。新常務取締役にフランク・クライン(Frank Klein)、料理長にGuy Legay(3つ星Ledoyenの元シェフ)を起用。パリの一流ブティックが並ぶアーケードを構築した。
1988年:エスコフィエに敬意を表し、リッツ・エスコフィエフランス料理学校を設立。
1994年:バーへキングウェイ。作家アーネスト・ヘミングウェイに因んで命名。ブラッディマリーの元祖。
1997年:英ダイアナ妃(Diana Princess、Princess of wales)自動車事故死。本人とドーディ・アル・フェイド(Dodi Al-Fayed、Mohammed Al-Fayedの息子)、運転手アンリ・ポールは、ホテルのインペリアルスイートで食事をとり、その後ボディガードのトレバー・リース・ジョーンズを連れてホテルを出発。アルマ地下道橋で致命的な自動車事故を起こし死去。
1999年:エスクァイア誌、「鏡と陳列ケースの長い回廊の下の食堂、L'Espadonはあなたのまわりで渦巻くようなきらびやかなリージェンシー形式がある」「それはディートリッヒと一緒に座っているHemingwayを想像できる」と称賛。
2001年:The Three Wise Menでは、BalthazarとGaspardがRitzで一晩過ごす。
2006年:映画「ダヴィンチコード」。
2006年:顧客状況。40%アメリカ人、12%イギリス人、10%中東そして10%ロシア人。
2009年:ミシュランガイドで2星を獲得。
2010年:仏・外務国際開発大臣、ホテル格付け基準が変更。5つ星の最上級ランク≪ distinction Palace ≫を設ける。基準例:1:ホテルが歴史的建造物、2:卓越した建築と装飾、3:最高水準のサービスとインフラ、4:ホテル内に「ミシュラン」レストラン、5:客室1室あたり2.75人以上など。
2011年:リッツ、≪ distinction Palace ≫の選考に落選。審査の結果、パリでの5つ星のなかの最上級ランクに該当しなかった。
2012年:閉館。≪ distinction Palace ≫を目指して大改装。
2014年:本年夏完成予定に遅延。予算1.4億ユーロ。設計はDidier BeautempsとAtelier COS。
2015年:Nicolas Saleがレストラン経営を引継ぐ。
2015年:再開予定遅延。2016年3月に変更。
2016年:1月19日朝、7階と最上階で大火災、消防車15台、消防士60名が消火に従事。
2016年:6月6日再開。4年間、4億ユーロで大幅改装。142室。
(注)4億ユーロが正しいかどうかは不明。
2016年:Albin Michel発行Pauline-Gaia Laburteによる「Ritzy」は、ホテルの創設者であるCesar Ritzの生活をロマンチックな方法で語った。
2016年:「伝説より美しい物語であるリッツ」(Quai Voltaire、1998年)は、「リッツのすべて!」(Tout sur le Ritz!)(The Round Table、同年)として再発行。バンドーム広場(Place Vendome)の歴史を遡り、創業者リッツの伝記とホテル100周年エピソードを伝える。
2017年:リッツはパリでもっとも高価なホテル。雇用600人以上。室料1泊1,100ユーロ~。スイートは3,500~20,000ユーロ。
2018年:改装で不要となった家具や什器の競売が実施。
2018年:ミステリープレイスヴァンドーム(Jeanne Vasseur)上映。
2018年:1月10日、数百万ユーロのジュエリー盗難未遂。

 出典:Ritz Paris、Cesar Ritzに関するフランス語、イタリア語、英語、日本語のWikipediaの記述、およびそこに登場する人物・事項のWebsiteの記事である。できるかぎりエビデンスを探したが、不正確な部分が潜むことは不可避であり稿者(大谷)の責任である。

 なお、本文中で、リゾートトラスト㈱に関するインタビューや記述内容は、2018年時点のものです。

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