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㈱リゾネットは当協会の「リゾネット」とは関係ない・・・e-Commerceを舞台にした新たな事案
 

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【6】発想の源…ヴィラデステ

6-1:ヴィラステがあるコモ湖畔

 先の伊藤與朗へのヒアリングで、ヴィラデステは、リゾートトラストのその時代におけるホテルを構想するにあたって、さまざまなヒントを引き出すモデルの役割を果たした。
そこで、八瀬離宮構想当時から約35年も前に、伊藤勝康(現会長)と見たヴィラデステ(Villa d’Este)とは、いったいどのような存在なのか探ってみよう。
 シルク関連事業者のヒアリングで何回かコモを訪れているので、筆者もこのホテル+庭園がコモ湖畔にあることは偶然に知っていた。
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 スイスの領土を北から南に向かう幹線道路アウトバーン2号線を南下して、スイス国境をイタリア側に抜けるとマスリアーニコという人口3300人の町があり、そこから3~4キロ下るとコモ湖がある。湖岸には、その所有者に変遷があるにせよ、かっての諸国の王族・貴族や、新旧の資産家や著名人が登場したヴィラ(Villa)がいくつかあるが、ヴィラデステもそのひとつである。
 (注) イタリア語のVillaをいまは一般に「別荘」と訳すが、本欄では「貴人の領地や避暑地に設けた大邸宅・別邸」の意味で使う。古代ローマ語でもあり、「領地の農地を守る要塞+領主の家屋」のような意味もあった。
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 このヴィラデステの所在地チェルノッビオ(Cernobbio)は、コモ市(ロンバルディア州都)の隣にあり、人口6800人の町(自治体)、その距離は1キロほどである。
コモ市は人口8.3万人、観光保養都市で、歴史は古く紀元前7世紀まで遡れる。その伝統において京都に比べても遜色はない。コモもまた、京都の西陣同様に、シルクの製織や染色で著名な産地である。前世紀のある時期(たとえば1980年代)、ことに染色では、パリ・ミラノのファション界に強い影響力があった。
 また、ヴィラデステも16世紀からはじまる。その歴史において、京都八瀬の近くにある修学院離宮(本来の名称は御茶屋)にも匹敵しよう。ただし修学院離宮には人騒がせな話題や事件は何も聞こえてこないが、ヴィラデステには山ほどある。この点で大いに異なる。 
 (注) 修学院は修学院村という地名。離宮は明治維新後の政府が命名した非伝統呼称。本来の名称の「御茶屋」はむしろイタリア語のvillaに近い。なお、Villa d’Esteは素直に読めば「東の別邸」だが、d’Esteには別の意味があるのかもしれない。
 代表の伊藤與朗や会長の伊藤勝康が1972年ごろに見たヴィラデステは、ただの絵葉書ではない。500年余にわたって貴人や著名人が好んで利用し、いわば手垢がつき、時代に適応すべく改修され、現代に伝わるヴィラなのである。
 当時、そこに伝わるéléganceやeleganzaは、いまよりも本格的であり、「センスの良い高級感」に対して、さまざまな手掛かりを与えたであろうことは十分予想できるところである。
 (注)Villa d’Esteは高級ホテルとして営業している。季節や日柄により変動するが、標準日の平均的な室料は10万円~/泊。最高クラスの客室で40万円/泊である。
 
  (注)この画像はVilla d’Esteのホームページから https://www.villadeste.com/
6-2:もとは枢機卿そして英ジョージ4世妃らの別邸

 ヴィラデステは、1442年にジェラルド・ランドリアニ(コモ司教・1437~1445年)が設立した修道尼院を約100年後に解体したことにはじまる。おそらく1560年頃、この敷地にトロメオ・ ガリオ(Tolomeo Gallio・枢機卿・1527~1607年)が、生まれ故郷の当地に夏季の別荘を建てるため、その設計をペッレグリーノ・ティバルディ(Pellegrino Tibaldi,1527~1596年)に依頼した。彼が提案したVillaと25エーカー(10万㎡)の庭園は、1565年に施工、1570年に竣工した。
ガリオは枢機卿ではあるが、マルティラーノはじめ各地の司教や教皇グレゴリー13世の国務長官を歴任、また、1595年にアルヴィト郡を買収して公国(Duchy of Alvito)とし1806年まで支配した。なかなかのやり手のようだ。ヴィラデガルボ(Villa del Garovo)と呼ぶこの夏の別荘を様々な社交に活用したであろう。
 設計者のティバルディは壁画家・建築家で、ガリオの別荘の仕事の後、フェデリーコ・ツッカリ(Federico Zuccari, 1542年~1609年)の後任として、スペイン王の宮廷画家に就任した。フェリペ2世がツッカリに命じたエル・エスコリアル修道院の装飾を嫌ったゆえである。
枢機卿のガリオの死後、このVillaは家族が相続したが荒廃、1750年頃にはイエズス会の研修施設になり、さらに有爵貴族のあいだで売買され、1784年、カルデラリ侯爵(Marquis Calderari)が取得、大規模な修復や、海にリカースの神(ギリシャ神話)を投げつけているヘラクレスの彫像、寺院、公園を増設した。
 同侯爵の死後、妻のヴィットーリア・ペルソ(Vittoria Peluso・スカラ座バレリーナのラ・ペルーシナと同一人物)は、ドミニコ・ピノ(Domenico Pino、伯爵・ナポレオン政権の軍務大臣・第15師団長・ロシア侵攻に従軍敗戦)と結婚、そのこのVillaに愛の証として模擬要塞を建て、そこに士官候補生を集め模擬演習を行い、花火大会や宴会を開催した。
1815年、ブランズウィック侯爵(旧ドイツ帝国内ブラウンシュヴァイク公国領主)の娘のキャロライン(Caroline Amelia Elizabeth; 1768~1821年)が所有する。後の英ジョージ4世(George Augustus Frederick; 1762~1830年・末期は肥満と精神疾患)と婚姻しウェールズ王女となるが離婚する。夫妻の娘シャーロット妃の早死、夫妻の離婚・王位継承騒動あるいは彼女の不倫疑惑、英国民による支持などは煩雑なので割愛するが、西欧史にはいくつか話題を提供した。
 さて、キャロラインは離婚後この別荘を住居とした。ただし、この庭園が不安定な形状であるとして、これを完璧にするべく英国風庭園に改造を進められ、改めてヌアヴァヴィラデステ(Nuova Villa d'Este)と改名された。ここではじめてヴィラデステという名前が登場する。

 
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