◆緊急告知

関東通産局は、特定商取引法に違反する行為により、リゾートクラブを含む複合会員権を連鎖販売する㈱リゾネットに対し、15か月間、業務停止命令。会員を勧誘したら儲かるとか、会員はいつでも割引で泊まれるとかには要注意!
㈱リゾネットは当協会の「リゾネット」とは関係ない・・・e-Commerceを舞台にした新たな事案
 

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   東京レジャーライフクラブ(TLC)  東京信用販売

   【沿革】
   *信販事業とは? 信販会社がなぜリゾートクラブ?
   「東京レジャーライフクラブ」の宿泊施設「伊東パウエル」「箱根ハウエル」の事業主体は、東京信用販売(株)である。同社は昭和28年に創立された。
   昭和25年から始まった朝鮮動乱が終結し、特需がなくなって不況を迎えるが、終戦後8年を経過し復興は著しかった。需要が旺盛で、分割払いでを買い物する客が増えてきた。割賦(かっぷ)販売が転じて信用販売と称した。こうした時代に、協同組合であった東京・杉並専門店会が業態を変換して設立されたのが、東京信用販売(株) (以下、東京信販)である。佐々木甫(はじめ)は、このとき、中心的な役割を果たした。
   割賦販売には、お店がお客に販売した場合に、お店がお客の割賦代金を回収する方式(直接方式)のほかに、お店のお客に対する割賦代金の請求権を信販会社が買い取る方式(間接方式)がある。信販事業を営むには、通産省(現経済産業省)への登録や許認可を必要とした。東京信販の登録は、日本信販よりも早く、 業界で2番目とか3番目と言われている。
   専門店会の構成員であるお店から見れば、お店の資金繰りを楽にするという意味で、信販会社の役割は重要であった。信販会社は加盟店を拡大しようとした。
   お店も信販会社の看板を掲げる以上の義務はないので、これでお客に買い物をして頂けるならと、気軽に信販会社の加盟店になった。東京信販は地元の杉並地区のお店のほかに、城西地区をはじめ、蒲田や江戸川の専門店会に働きかけた。ピーク時の加盟店は3,000店以上になった。
   1万円以上のお客の買い物で、分割払いの回数が5回以上になる場合、信販会社はお客から手数料を取るとともに、また加盟店からも、即時に代金を回収する見返りとして手数料をとった。
   (注)この手数料が金利なのかどうかは、銀行法が適用されるかどうかの問題につながった。

   *杉並の土地柄・・・明治維新以降一貫して成長
   東京郊外の一住宅地ではあるのだが、これを軽く見てはならない。2016年の杉並区の人口は55万人。金沢や長崎よりも多い。それだけではない。市町村民税所得割の納税義務者数と所得割額を23区別に集計し比較すると、杉並区(平成25年度)、23区のなかで10位(553億円・10.2万円/人)である。ちなみに金沢市は5.5万円/人、長崎市は4.2万円/人である。
   江戸が江戸であったのはせいぜい四谷か新宿まで。その先は田舎であった。日本橋を起点にして甲州街道の最初の宿場は高井戸。東海道の品川に比べ、上り坂があり、遠く不便なので、浅草の有力商人が幕府の許可を得て、新規に開場した宿場を「新宿」と名付けた。
   幕末の「旧高旧領取調帳」によれば、荻窪村の一部や阿佐ヶ谷村は日枝神社領。江戸時代の武蔵野の27か村で獲れた米が〆て7140石である。
 「旧高旧領取調帳」の出典:https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/searchrd.pl
   すでに幕末の頃には、台地の割には灌漑が上手くいっていたのであろう。これらが集まって現在の杉並区が出来たことになる。
   杉並はもともと地名ではなく、いわれは甲州街道の杉並木にある。大正初期で2万人程度という。1923年(大正12年)の関東大震災を期に、下町から郊外に住まいを移動、武蔵野の人口も増加する。震災時工事中だった東京駅前の旧丸ビルは、東京の民間企業にサラリーマンが登場した象徴だった。万世橋止まりの中央線は1919(大正8)年に東京駅に延伸、中野‐吉祥寺間も電化され、1922(大正11)年、現JRの阿佐ヶ谷駅が開業、ともかく都心に向けて電車が走り、通勤可能な状態になった。
この中央線は、当時の他の私鉄と異なり、乗り換えなしで東京駅まで(山手線の内側まで)行けるという「特権」をもっていた。
   この地域の人口の急増に対応するため、中央線の長距離列車の始発駅は、飯田橋から新宿に移り、従来の列車の路線に電車が走る。その昭和8年には御茶ノ水と中野の間に急行電車が登場した。
   それでも、昭和初期の杉並はまだ余裕があった。入澤達吉(大正天皇の侍医)が荻窪に別荘(後・近衛文麿の荻外荘、2013年度に31億円余で杉並区が買収、現・国指定史跡)を建てる。1942(昭和17)年の人口は26万人。
   右の画像は、昭和28年 ビザンチンスタイルのアーチ照明完成したときの写真である。
   街路に進入禁止のサインがあるが、当時の新聞には、「車馬止め人専用道路に」という解説があった。
   このサイトには、東京の郊外商店街の発展を示す、興味深い写真が相当量開示されている。
      戦時疎開で一時減少するも、1963(昭和38)年に50万人台に到達。その戦後復興と高度経済成長のさなかの杉並商店会の構成員にリゾートクラブ事業を構想した人物がいたのである。そして1961年(昭和36)年、営団地下鉄が高円寺南駅を開業、1967(昭和41)年、総武線が中野から三鷹まで延長、高架複々線化が完了、現在の姿に近いた。
   いま見れば、佐々木の信販事業は杉並の人口急増期の渦中で始まり、また、会員制事業は人口増加の安定期の入口で構想していたことになる。
 上掲画像の出典:「パールセンター商店街 歴史料」   
  http://www.asagaya.or.jp/archives/archives.html
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