◆緊急告知

関東通産局は、特定商取引法に違反する行為により、リゾートクラブを含む複合会員権を連鎖販売する㈱リゾネットに対し、15か月間、業務停止命令。会員を勧誘したら儲かるとか、会員はいつでも割引で泊まれるとかには要注意!
㈱リゾネットは当協会の「リゾネット」とは関係ない・・・e-Commerceを舞台にした新たな事案
 

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お知らせ

 【草軽電鉄】
 ヴィラ北軽井沢エルウィングの13階大浴場、西湯の正面の窓に平行に走行した鉄道で、眼下の集落にあった駅が北軽井沢駅(名称変更前は地蔵川駅)であった。駅舎と電気機関車と車両が記念に残っている。こんな儲からない鉄道を、なぜ儲かると判断したのか。まことに興味深いところである。
 カブトムシという愛称をもった高原鉄道が、1962(昭和37)年まで、軽井沢と草津温泉を走っていた。おもちゃのような軽便鉄道である。
 You-Tubeに「草軽電鉄」とでも入れて検索すれば、いくつか動画が出てくる。なかには、懐かしの名画の一場面もある。
 草軽電鉄の動画の例  

  https://www.youtube.com/watch?

 この鉄道は、多分、本業の鉄道事業に関して、補助金なしでは、一回も利益を上げることはできなかったかもしれない。しかし映像はなんともかわいいのである。ちっちゃなカブトムシみたいな電気機関車が1両の客車と貨車を連結して、ときに屋根に雪を乗せて一生懸命走る姿は、健気というしかない。脱輪もするし、雪で立往生もするから、その都度、従業員が面倒見なければならない。映像のなかには、途中で、大型の路線バスに抜かれていく光景もある。
 ときどき、映画の現地撮影にも登場するのでファンが多く、意外に知名度はあったから、いざ廃業となれば、後ろ髪をひかれるのは無理もない。東急の五島慶太ですら、ギリギリまで存続を検討したという。
 21駅、55.5km(ただし2.5~3時間)、軌間762mm、全線単線。東急系である。当初は蒸気機関、のちに全線電化、直流600Vであった。建設費用削減により、急曲線・スイッチバック・トンネル欠如・急勾配・道床砕石欠如・線路規格貧弱を招き、鉄道としては低速運転が必至であった。この鉄道は、多分、本業の鉄道事業に関して、補助金なしでは、一回も利益を上げることはできなかった。
 事実関係はおよそ以下のとおりである。事業のライフサイクルを想起しながら、起承転結で区切ってみた。「時勢に適せざる鉄道」が、西武や国鉄が注力したバス輸送に移って行った。しかし、事業者はどこで手元が狂ったのか?
 注:北軽井沢駅舎跡・展示された機関車
 【地蔵川駅から北軽井沢駅に改称】
 一匡社による一匡邑や法政大学の大学村は、この地蔵川駅周辺にあった。何もなかったところに、ぽつんと、形ばかりの駅を設けて地蔵川駅と名付け、その周りの土地を、開発希望者に売却した。もとはといえば北白川宮の広大な事業地の一部であったから、周囲に何もないのは当然である。1927(昭和2)年に地蔵川駅を北軽井沢に改称した。たぶん、松室の影響ではなかろうか。
 掲記のように、大正13年、蒸気機関車の火の粉を浴びて別荘が焼けたとクレームをつけたが、どういう風にしてかは不明だが、説得されて全線電化開通に向けた草軽電鉄の経営強化に協力し、7.9万坪の土地を電鉄に寄付し、500坪の別荘地がついた株式を発行させ、草軽電鉄は130万円の増資に成功し、翌大正15年、全線電化開通が実現する。
 大学村が別荘分譲するのは、昭和3年である。買い手の多くは東京かその周辺であろうから、販売担当者が説明するにしても、地蔵川駅の近くというよりは、その頃躍進目覚ましかった軽井沢の北にある北軽井沢駅の近くといった方が、良かったのかもしれない。
 それから60年を経て、90年バブルへの上昇期、この地がリゾート開発ブームで開発対象になり、こんどは、駅名のかわりに、大字名を応桑から北軽井沢に変えてしまった。はたして良かったのかどうか?