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関東通産局は、特定商取引法に違反する行為により、リゾートクラブを含む複合会員権を連鎖販売する㈱リゾネットに対し、15か月間、業務停止命令。会員を勧誘したら儲かるとか、会員はいつでも割引で泊まれるとかには要注意!
㈱リゾネットは当協会の「リゾネット」とは関係ない・・・e-Commerceを舞台にした新たな事案
 

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お知らせ

5-3裏
 【2軒しか残らなかった旧・館林藩士の入植②】
 さて、長州の典医の次男が上州の知事になるようでは、上州諸藩の旧藩士たちが陽の目を見ることが難しい。まして1874(明治7年)に民間払い下げが決定した館林城が焼失。旧家臣もよるべきシンボルすらなくなった。定例給与で生活してきた全士族42万人(家族ともども推定200万人・人口の7%という)の強制転職であるから、反乱がおきるのもやむなしであるものの、本人にしてみたら、反乱してもほとんど得るものはないという悲劇が待っている。途中で目覚めて転向して政治家になっても、薩長がおさえているから、前出の楫取の後塵を拝するのはなかなか難しい。
 一方、事業とは、雑駁に言えば、なんらかのモノ・サービスの製造・販売である。製造・販売すべきモノ・サービスは何か。士族授産で例示されるのは、開墾して米・桑・茶を栽培し成果物を販売する、ウシ・ヒツジを飼育する、工場を建て生糸・砂糖・紅茶・絹織物・綿織物・畳表・和紙・マッチ・セメントを製造販売する、装置として汽船を購入し海運という用益を得る。しかし「資金不足や経営の不味さで失敗」「士族の商法」と書かれるが、どれをとってみても、判断を伴う処理が必要であり、その取得には経験か理論(他人の経験の集大成)の学習が不可欠である。要は、事業推進のためのノウハウなのだが、維新の士族授産だと、仕事とともに会得していく(OJT)方法しかないであろう。丁稚の修行に相当する期間が必要になるし、その間、虚心坦懐に学ぶ姿勢も必要だが、体面や性格から、短兵急に他人を雇用して頭に座ってみても、今度は組織論がいうことを聞かないから、破綻に進むしかない。倫理的には「我慢」を強いる場面だが、遺憾ながら、事業は冷酷な一面があって、我慢して得する場合と、無駄な場合がある。その見極めを、旧館林藩士たちも要求されたであろう。追加融資や補助金、現物供与や寄付などの美談はさまざま残るものの、たいていは資金繰りというけれど、つまり、カネが続くか否か、キャッシュフローに入る前に、事業は死に体だったのである。そこに悲劇が潜んでいる。
 おそらく、吉川秀造『士族授産の研究』有斐閣、昭和17年あたりに詳しいであろう。意外にこういう本がビジネスキームの構築に、あるいは家産の来し方の整理や行く末を占うのに役に立つであろうが、ここは孫引きをご寛恕いただきたい。
 維新政府の授産のポイントは、①開発先移住先の紹介(ただし介後の成績は保証せず)、②融資や補助金の整備斡旋(法人個人への家禄等担保による事業資金融資や供与)、③金融機関の整備であろう。
 ①以外はすべてカネメの話しである。②は税金の移転だからともかく、③は他人の預金(要求払い資金)を融資するから、よほど優良な事業でなければならない。しかも、不換紙幣を整理し日本銀行を設立し日本円の価値を安定させるための緊縮財政が1881-84(明治14-17)年に実施され、激しいデフレ(物価下落)が生じることなど、世渡りに平凡な旧士族に予測できるはずもない。
 このデフレ効果は借金返済組には大きな負担になった。キャッシュフローがまわるようなビジネスならいいのだが、稼げない事業で借り入れていたらひと溜りもない。「封建制度から資本主義社会への過度期」とどの教科書にも書いてあるが、書くべきは、だからこそ目端が利くか聞かないかは大きな差を生むという事実と、その身の処し方の例であろう。
 まずは山片蟠桃や三田村利八クラスの超商人ならともかく、藩士のなれの果てや地元名望家が多少頑張ってみても、何が優良な事業なのかは分かろうはずもない。せいぜい分かるのは担保の有無であって、要は、基準が決まっている事務的判断の域を出たがらないのである。結果的にはほとんど役立たずとなる。そこで分かりやすいのは①の開墾となる。
 ただし、開墾だって開発したあと何に使うかはあまり考えない。とりあえずは、①農地の所有につながるなら納得しやすい、②単純労働を積み重ねれば何とかなりそうだ、③少なくとも商人のまねはしたくない。きまりきった作業(ルーチンワーク)で相済ますという意味では、開墾は定例給与生活者になじみやすかったのであろう。
 しかしながら森林を切り開いて農畜産用地にするといっても、それなりの技術や知識が必要で、それも含めての開拓者魂である。単純作業しかできない者もいたし、得手不得手がある。ある時期には同じ作業を集中させる必要もある。入植・開拓といえどもすべてルーチンワークでは済まされない。ひとりですべてはできない。基本は助け合い。組織が必要になる。
 結局、ルーチンワーク以外の世界に飛び込みながら、組織になじめず、ルーチンワークの域を出なかった向きは破綻し、秩禄や金禄の公債証書は売却されて商人の所有となった。全士族と全商人とを対置するなら、大きな流れで見ると、士族の持ち分が、商人の持ち分に変った。士族の生活はさらに苦しくなり、下手すると、何も得ないまま、あるいは周囲に不幸をまき散らしながら、生涯を終える羽目になった。したがって恨みに思う者は絶えず、何とかの乱は多々起きていた。ただ革命に至らなかったのは、いわゆる大衆的支持基盤がなかった故であろう。
 そこは明治政府が上手かったのである。政府の役割は、ガス抜き、不満分子の説得であった。家禄処分に異議を唱える者は家禄賞典禄処分法等により請願が許され、大蔵省は30万人弱の請願を審議したが、再審請求も多く、維新後50年余を経た1919(大正)8年になっても臨時秩禄処分調査会を設け理財局が事務を扱ったという。
 旧士族としては反乱していても生活ができるわけではないので、よほど才覚にあった人物以外は、開墾に参加するか、軍人・教員を含む官吏(多くは下級吏員)になるしかなかった。
 むろん成功例はないわけではない。水土の礎は、「静岡の茶園、岡山の紡績、広島の綿糸紡績、鹿児島の薩摩縞、福岡の久留米絣、石川や福井の羽二重、福島の絹織物、山形の米沢織、名古屋コーチンを生んだ養鶏業等々、いずれも士族授産を契機となってその地方の特産となり…」と列挙する。これから触れる六里ヶ原の北白川宮以降の開墾も、いまとなってはこの成功例に何ら劣りはしない。
 近代日本の礎@水土の礎ホームページ 

  http://suido-ishizue.jp/kindai/index.html


5-4B 
 【2軒しか残らなかった旧・館林藩士の入植③】
 群馬県の東南端にある旧館林藩の藩士も明治維新で職を失った。新政府の救済策で士族授産が進められ、当初、他の藩にならって北海道へ移住する案があったが、揖取素彦(前出の群馬県知事)、平田東助(米沢藩出身だがドイツ法の専門家で当時はおそらく法制局勤務)等の斡旋で、当時北白川宮家の用地であった当所へ十年間辛抱するならば一戸当五町歩の土地をやるという約束の下に、1883(明治16)年、旧館林藩士族倉田英雄・山下重吉ら12戸が、大字応桑の御所平(多分伝説であろうが鎌倉右府の狩猟地の意味)に移住した。ただし優雅な地名に反して、実りは乏しい痩せ地にかわりはない。
 (注)鎌倉右府は源実朝のこと。鎌倉幕府3代将軍。金槐和歌集は実朝の家集。金は鎌の偏、槐は槐門で大臣の別称。別名鎌倉右大臣家集。
 時期的には、松方財政のさなかであったことは、まだしも時宜を得ていた。入植にあたっての資金は、旧藩主家の秋元興朝から何がしか(金額不詳)、群馬県から営農・生活資金として4年分の扶持を担保に5,000円の融資(中村元雄知事の時代に扶持と交換し返済)、無税、群馬県から入植地付近官有林の立木伐採を3円(桜井伝三郎・後長野原町長から借入)のようである。10町歩1000本の立木を3円で払下げを受けるが、その面積は事実上不問だったが、後に、倒木のみ可ということになった。まずは、そうそう返済に窮する資金ではなさそうだが、運転資金にかなり窮していて、子供に小学校に行かせることもできず、かなりひどい生活をせざるを得なかった。
 移住後、入植の準備作業、つまりは原野の農地化と住む家の建設である。作業は日々広漠原野での熊笹の焼払い、伐木、抜根、土掘の連続である。町誌では、「2ヶ年労苦の結果ようやく住宅の建築も終り、明治18年の秋入植することができ、開拓の根拠地を求めた」とある。
 また、1887(明治20)年5月22日付「群馬日報」に紹介して、移住5年後の姿を応桑村の様子とともに開拓を伝えている。
…応桑村は吾妻郡の北隅、中の条町から8里余、村内116戸、人口589人、9ヶ所に散在、内60名は館林旧藩士族で、政府の許可を得て5ヶ年間開墾し、15町歩余の畑地を得た。粟、稗、馬鈴薯に適する。長野県沓掛に向かう県道の中部にあり、人馬の往来が最とも多い。(中略)一村あげて博愛の情深く、宮崎菊次郎が現役歩兵の命を奉じ、高崎分営に入営するので、盛大に宴会して送り出したと紹介している。
 1889(明治22)年、北白川宮が開拓地を訪れた際、「私は開墾が好きである、土の深さ三寸の処に宝がある。一生懸命で掘れば必ず宝があるから飽きずに掘れ」と諭したそうだが、お付の小野田書記官は、彼らは自分と同じ旧秋月藩の連中だが、顔色が余り良くないので、もう一度見てくるからといって、宮を待たせ、生活ぶりを見たところ、一升五厘の片栗を挽いて粉にして食べていた。これではし方ないので、豚や牛の仔をあげるから、これを育てて食べよと提案したところ、大きく育つまで食料が必要になる。ここには食料がない。くれるなら馬がいい。例の立木で作った炭を馬で嬬恋まで持って行けば、20-25銭が70銭から1円で売れる。そうなれば馬も飼えるということだった。
 このとき、小野田書記官は5円置いて、東京の秋元子爵邸に行き、実情を話して300円の支援を受け、払い下げの計画にあった群馬県の馬10頭を計90円で買い、翌年までの飼育料が計50円というので、子爵からもらった資金の残り210円を渡した。こういう美談に包まれるときもあった。しかし、当初12戸入植したが、「脱落、失跨者が続出して次第に戸数が減少」し10戸が離脱、結局2戸が残った。
 1893(明治26)年と推定されるが、倉田英雄と山下重吉の2戸が宮家よりは69町歩を貰い受けた。
 以上は、主に、長野原町誌上巻の「開拓・入植」の章による。町誌は1976(昭和51)年に発刊されたが、1883年に六里ヶ原に入植し、いまなお営農しているのは、先の倉田英雄と山下重吉の子孫と、藤川金吉の子孫という。
 小野田書記官とは、小野田元熈(もとひろ)で、館林藩下士の藤野逸平次男、小野田安兵衛の養子となり、東京府邏卒(巡査)から身を起こし、この当時は長野県書記官であった。後に、茨城・山梨・静岡など5県の知事を歴任、貴族院勅選議員で錦鶏の間祇候となり、上毛モスリン社長を5年ほど勤めている。同町誌では好人物と紹介されている。