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㈱リゾネットは当協会の「リゾネット」とは関係ない・・・e-Commerceを舞台にした新たな事案
 

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お知らせ

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 【北白川宮の浅間牧場開発と退場】
  1877(明治10)年の1月に始まった西南の役は9月に終結、1894(明治27)年の日清戦争まではだいぶ間があることになる。文明開化・殖産興業・富国強兵が一層徹底される期間だが、軍服の需要が格段に増えるので、ウール生地の原料となる緬羊毛が必要になる。そこで人工的にヒツジ(緬羊)を繁殖・飼育する牧場を確保しなければならない。しかし高温多湿の日本は、低湿・冷涼な気候を好むヒツジの飼育に不適であったが、軍用毛布用原料確保のため、1875(明治8)年、大久保利通の提案で下総牧羊場(下総御料種畜牧場)を設け、ここから日本における本格的ヒツジの飼育が始まった。大久保はたとえば1876(明治9)年難航していた安積原野の1万haの大規模開発の話を聞くと、ただちに実現の端緒を開こうとするほど殖産興業に熱心であった。
 富国強兵の結果、必然的に生じる大量の軍服需要を充たすため、下総に続く生産拠点が必要になった。そこで新事業所を確保すべく、1880(明治13年)、内務省勧農局畜産課は用地の調査を進めた結果、浅間山麓通称六里ヶ原が適当となった。翌年、地元吾妻郡でも調査し適地との確認をし、事業者を募ったところ多数が応募し選定に苦慮した。
 そこで、81年に大日本農会会頭に就任していた北白川宮(能久親王)に一応相談したところ、なんと、「余が払下げて決行しよう」とのことである。止む無く?、六里ヶ原(後年の浅間牧場)は宮家の直営事業となった。
 北白川宮には、彰義隊や奥羽越列藩同盟に擁立され東武天皇に推戴されたとか、プロイセン留学中に同国貴族未亡人と婚約して現地新聞に発表し日本政府に結婚許可を求めるも、事実上拒否され止む無く婚約解消するなど、少々かわったところがあった。
 77年帰国後軍務に精励、81年に陸軍大佐、84年に少将に進級、東京鎮台長官に補職され、立派な軍人であった。一方、密かに、日本在来種軍馬の改良増殖を計画していたという。
 六里ヶ原の払い下げを受けた宮家は、主監に波多野尹政(下総牧羊場2代場長・権少書記官・退職後は四谷銀行頭取)、嘱託に辻正章(宮内省主馬寮技手から同牧場技師5等属・1877-85年勤務・著書に『日本牧羊問答』有隣堂など)を宛て、おもに辻の指導により整備に努めた。
 1882年、下総牧羊場からヒツジ200頭を引取る通知を受け、羊舎建設の運びとなったが、北白川宮のヒツジをやめて馬にする意向から、牡馬1頭、牝馬20頭の払下げとなった。
 92年陸軍中将、94年に日清戦争がはじまり、95年近衛師団長、95年台湾上陸と軍歴はトントン拍子だったが、同年台湾台南でマラリアに罹病、49歳で薨去した後、陸軍大将に昇進した(北白川宮能久親王で画像検索
 しかし、宮の没後、浅間牧場の経営は難航した。宮家は牧場経営を断念し、吾妻牧場会社に払い下げた。その後、草軽軽便鉄道が所有し、さらに亀沢半次郎ら五氏に売却され、戦後の農地改革で、その小作人が所有するようになった。
 あのとき、宮がおとなしくヒツジを飼育していたらどうなっていたか。戦前から戦後しばらく日本の毛織物は輸出品だった。しかし、アクリルなどの化学繊維に押され、跡形もなくなっていたかもしれない。
 (注)『長野原町誌』上巻、625頁以降などによる。
 
 【2軒しか残らなかった旧・館林藩士の入植】 
 ここで取り上げるのは、高々、没落士族が12戸入植して2戸だけ残った経過に過ぎない。六里ヶ原に格別縁故のないリゾートクラブ客にとって、ほぼどうでもいいことなのだが、眼下の北軽井沢の集落と、窓越しの六里ヶ原を見るに、また、いろいろな妄想が湧いてくる。
 月並みだが、1869(明治2)年の版籍奉還は領地と領民を天皇に返還すること、1871(明治4)年の廃藩置県は各地の藩を廃し府・県に一元化し中央政府が統制することであった。勘の悪い向きは、幕府に代わって新政府が秩禄(華・士族に与えた家禄と賞典禄)の支給を保証してくれると考えたようだが、いかにも甘い。…いまの年金だってそのまま続くと考えるのはいささか甘い…。旧高旧領取調帳データベースでいえば、羽前国村上郡各村(現・山形市)にあった4.6万石ほどの館林藩領分が、館林県に移管されることを意味する。最初は館林県の知藩事は館林藩の藩主だったから、表面的には肩書が変わっただけだ。2年後、知藩事から藩の字が取れてしまい知事になる。次第に、旧藩主とは関係ない赤の他人が中央政府によって任命される。この辺まででどうも様子が変だと気付くべきなのだが。
 1873(明治)6年秩禄(ちつろく)奉還。華・士族の秩禄(政府が与えた家禄や賞典禄)を放棄させる代わりに、数年分の秩禄に相当する金禄公債証書を与える。…まとまったカネを渡すから事業を起こすなどして自分で稼げ…という趣旨である。しかしこれは無理というもので、定例給与に慣れてしまった人たちにビジネスといっても、定例給与をだせる組織に勤めさせない限りは難しい…。アベノミクスの第三の矢もこのあたりが課題…。しかし新政府の裁量は全国3000万石のうちの旧徳川と旗本領800万石に留まる。旧士族の生活よりも、財政破たんの方が重要だ。よって、1876(明治9)年、秩禄処分を断行し全華・士族に秩禄奉還を求めた。要は、金禄公債証書を交付して、秩禄を打ち切る。その代り反動は必至で、1881年佐賀の乱から87年西南戦争に至る士族の反乱の処理に追われた。例の第三の矢の促進にはこのくらいの施策が必要になるであろうが、それだけの政治力があるかどうか。そういう意味では明治維新はすごかった。
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 それで、館林藩は明治4年の廃藩置県で廃藩となり館林県に置き換えられた。ときの藩主秋元礼朝は遠江掛川藩主太田資始の五男で養子に来た。養父は毛利家から養子に来た秋元志朝である。志朝は禁門の変の折りスパイ容疑で隠居させられた。優れた家臣を水戸に送って学問をさせたり、河内領(館林藩は河内国・丹南・丹北・八上の各郡に約2.5万石の領地があった)内の天皇陵が荒れているといって修復しているから、「勤皇派」視されていたかもしれない。
 家督相続した礼朝は幕府内で奏者番になる。まずはエリートポストだから佐幕派であったはずだ。しかし、1868(慶応4)年の戊辰戦争では早々に奏者番を辞し、なんと上野・倉賀野で征東総督岩倉具視に面会、大砲2門と砲手12名、2万両を献じて官軍派に寝返った。これは関東諸藩での最初のケースである。家臣塩谷甲介の勧めという。家臣の水戸遊学の効果が出たのか、二股かけたのか、養父のことで幕府に反感を持ったか、時代を察知したか…?
 維新後、その功で賞典禄1万石を加増された(むろん後に証券化され秩禄金禄公債になっていく)。その後、版籍奉還で館林藩知事に任命されるも廃藩置県で免官、養子の興朝に家督を譲ったとある。子爵に収まって東京に居を構え、まずは安泰であった。
 旧舘林県は栃木県に編入、さらに1876(明治9)年群馬県に編入された。
 中央政府が任命した群馬県知事は、楫取(かとり)素彦。1829年生まれで当時47歳。夫人は吉田松陰の娘。毛利藩医松島瑞蟠の次男で儒官小田村家の養子。本人は明倫館司典助役兼助講から大番役で江戸藩邸勤務が契機になって明治政府に採用された。1883年に元老院議官に就任するまで群馬県在勤は7年に及ぶ。県庁舎を前橋に持ってきてので、高崎ではそれ程でもないかもしれないが、よほど名知事であったようで、群馬県図書館に楫取素彦に関する資料が公開されている。その後、高等法院陪席裁判官・貴族院議員・宮中顧問官・男爵と歩んだ。維新政府になかで筋が良く、能吏であったのだろう。
 群馬県立図書館のホームページ 

  http://www.library.pref.gunma.jp/index.php?page_id=263

  館林市史編纂事業

  http://www.city.tatebayashi.gunma.jp/shishihensan/gaiyou.html