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㈱リゾネットは当協会の「リゾネット」とは関係ない・・・e-Commerceを舞台にした新たな事案
 

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お知らせ

【眼下の集落はなぜ北軽井沢?】
 軽井沢は長野県北佐久郡軽井沢町大字…。旧国名は信濃(しなの)である。
 この北軽井沢は群馬県吾妻郡長野原町大字北軽井沢…。上野(こうずけ)で上州(じょうしゅう)と略す。上毛(じょうもう)は上野国の別称である。群馬県の地方紙は前橋に本社のある「上毛新聞」、栃木県の地方紙は宇都宮の「下野(しもつけ)新聞」という。ただし下毛とはいわない。下毛野(しもつけの)が下野と改称したのは和銅6(713)年というから、もはやこの原稿の守備範囲ではない。
 北軽井沢の集落の2013年1月の人口は1,632人、長野原町は6,222人である。軽井沢の旧軽井沢と中軽井沢の人口は6,131人、軽井沢町は19,384人。閑散とした旧草軽電鉄の北軽井沢駅舎跡やその付近のたたずまいを見るに、その都市集積はたしかに差はつきすぎた。だからあえて2番になって「北」の名称に甘んじているのだろうか。あとから触れるが、この地の開発の経緯やコンセプトは、決して、軽井沢の2番煎じではないのである。

注:13階展望風呂から信濃国方向をみたときの、眼下の北軽井沢

 そしてなぜ長野原なのか。長野が上野長野氏のことであるならば、戦国時代には消えてしまったが、前橋・高崎から西を支配した大豪族の姓である。しかし、長野県のながのは、野が長い…という地形の特徴(角川地名大辞典等)と説明する。妙高山を最高峰とし、上信国境の頸城山塊(くびきさんかい)辺りを源とする扇状地と盆地が、長く続いている形状を云うようだ。
 長野原の長野に明快な説明がみあたらない。この辺には原町がふたつあって、ひとつが群馬原町、長野に近いから長野原町になったという。が、長野原村は江戸時代からあったので、この説明は多分違うであろう。角川地名大辞典の「町名の由来」では、「近世以来の村名による」とある。異説だが、例の上野長野氏の本拠地が現・長野原町のどこか、あるいは近くに在ったのかもしれない。
 
 【全国にいくつかあった軽井沢の地名】
 それでは、2番で煎じるほど、軽井沢という地名は、由緒正しく、ありがたい地名なのか。その意味するとことは、枯れた沢、荷物を担ぐ沢ともいうが、定かではない。しかし、少なくも江戸末期(旧高旧領取調帳によれば)、軽井沢という地名は全国に数箇所存在した。岩代の大沼、羽後国の秋田・雄勝、下総の印旛、伊豆の田方、信濃の更級・小県・佐久、越後の古志、以上の各国と郡に「軽井沢村」があった。
 いまでも、横浜市西区には軽井沢という町名があり、K中という愛称を持った公立の軽井沢中学校もある。大館(秋田)、鎌ケ谷(千葉)にも軽井沢の地名は使われている。沢が枯れた状態を表象する一般的な名称のように思えてならない。
 しかも、江戸末期から明治期にかけて、軽井沢は信州・佐久郡でメジャーな存在ではない。軽井沢宿が軽井沢村になるものの、1989(明治22)年には東長倉村に吸収され、そこから30年以上を要し、1923(大正12)年に軽井沢町になる。風光明媚であったようだが、好んで住む人は少なかった。
 江戸末期の狩宿村・小宿村が現在の北軽井沢にあたる。その頃、我が村を呼ぶのに、隣国の一宿場町・軽井沢にちなむ習わしなど、まずはなかったはずである。

 【乏しい米の収穫・北軽井沢は220石余】
 このシリーズで飛騨の高山・ホテルアソシア高山リゾートをとりあげたとき、飛騨郷土史としてその膨大なバックナンバーを誇る雑誌『飛騨春秋』のなかの、「江戸時代の飛騨における米穀事情」(菱村正文)に注目した。その書き出しに、「下々の下国と呼ばれた飛騨国は交通不便な僻遠の地である」とあった。気になったのだが、江戸末期で飛騨は5.7万石(99%が高山郡代の管轄)であった。金森家のお家断絶のときが3万石程度であるから、江戸期でだいぶ増収したことにはなるが、なお「下々の下国」であった。
 さて、北であれなかれ、井戸の枯れた地名だから、江戸期、軽井沢がそうそう豊かなエリアではなさそうだとの見当はつく。
 郡の単位では、北軽井沢のある上州・吾妻郡は89村で2.5万石、信州・佐久郡は211村で9.8万石である。国の単位で5.7万石の飛騨よりはよさそうであるが、吾妻郡もまたあまり米が獲れなかったのであろう。山岳地帯のなかでは、まだしも佐久郡の方が米には恵まれていた可能性はある。
 現在の現代の長野原町に属する13か村で1,636石。軽井沢町に属する9か村で3,328石である。そして、江戸末期の軽井沢村394石、北軽井沢に該当する江戸末期の狩宿村・小宿村で221石。ここから半分が年貢に取られ、残りで村の何世帯の農民を養えたかは不明だが、米だけで生計の維持は難しそうである。両軽井沢とも米だけではわずかな人口しか生き延びられなかった。
 そこで、宿場のサービス業と養蚕の収入が重要な糧となる。信州・軽井沢は東山道の宿場町だからまだしも、草津の温泉に湯治に行く客のためか、上州・北軽井沢にも関所があったけれども、主街道から外れた「交通不便な僻遠の地」は否めず。いわば飛騨に準ずる貧地で、生きるためには「脱コメ」路線しかなかったようだ。