◆緊急告知

関東通産局は、特定商取引法に違反する行為により、リゾートクラブを含む複合会員権を連鎖販売する㈱リゾネットに対し、15か月間、業務停止命令。会員を勧誘したら儲かるとか、会員はいつでも割引で泊まれるとかには要注意!
㈱リゾネットは当協会の「リゾネット」とは関係ない・・・e-Commerceを舞台にした新たな事案
 

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 少々、⑤オリーブに深入りしたけれども、②の醤油を取り上げてみよう。②醤油は、⑤オリーブのように、御上のお声がかりでここまで育ったというわけにはいかない。小豆島における醤油の製造と販売は
それこそ矩を超えずに、耐え抜き頑張る小豆島根性物語が潜んでいたというべきであろう。
 関西醤油は、紀州・湯浅、播磨・龍野、そして讃岐の小豆島ということになる。小豆島の醤油は、1591(天正19)年、豊太閤の大坂城築城に端を持つというが、関係者の尽力にもかかわらず、どうも史実とするには物証がないようだ。ただし、豊太閤の大坂城築城に小豆島石(良質の花崗岩)が大量に使われたことは明白であり、他に例をみない100トン強クラスの巨石をどう切り出し、積み込みしたのかは分かっていない。
 そういう状況なのだが。ここでは「紀州・湯浅」説を記しておこう。要は、大坂城築城の折り、現場ではたらく人々に供給される食糧の調味料に、紀州・湯浅の醤油があり、小豆島出身の石工がこれをみて、故郷に吹聴したのが始まりという。これといった調味料のないときに、いわば「グルタミン酸入り塩水」で味付けされれば、いくばくか美味になることはありうる話だが、残念ながら裏付ける史料がない。したがってどの程度の「醤油」なのかも分かっていない。紀州・湯浅は和歌山市の南に位置し、大坂城まで陸上で93Km程度、一方、小豆島・大坂城は海路に拠りざっと130㎞程度であろうか。
 大坂城の作業を終えて帰郷した人々が、その味の良さを思い出し、「醤」はどう作るのかという問題を設定したであろう。その意識を以って、内製しようという動機が働いたことも想像に難くない。しかしながら、小豆島から大坂に醤油を出荷した記録は210年後、大分後になる。1804(文化元)年、小豆島の橋本屋高橋文衛門が、大坂の島屋新兵衛出荷したとある。1808年になると、ほぼ毎月出荷し、橋本屋はたとえば1808年には63石(1升瓶で***本)程度、生産していた。
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 いささか不思議なのは、小豆島醤油に対する評価である。大阪の得意先が、「小豆島の醤油がないと店の営業に差しさわりがある」旨の記述があって、安定供給を望む声がある一方、「小豆島の醤油は関東から比べるとだいぶ落ちる」という記述もある。まさか、食い倒れを是とする大阪贅六が、小豆島くんだりの不味い醤油をわざわざ食するはずもない。しかも、小豆島醤油は徐々に販路を伸ばし、河内・堺や、讃岐・高松にも得意先を開拓して行ったし、醤油の醸造家も増える。だから小豆島醤油はむしろ美味しかったというべきだが、おそらく、すべての小豆島醤油が美味しかったのではない・・ということであろう。 
 狭い島内のことである。醤油が儲かるとなれば、すぐにも伝わり、自分もやってみようということになる。認識はなかったであろうが発酵食品である。味は作り手の数だけあったはずで、それも毎回味が変わる可能性もあった。なかには秀逸な商品が出たとしても不思議はないし、なかには、不味い商品もできたであろう。
 売れるを良いことに、粗製乱造、短期で荒稼ぎするグループも誕生する。利害関係者が寄り集まって、求評格付けがはじまる。1816(文化3)年には「極上・並・合印・次」というような格付け制度ができた。むろんこれに不満を抱く者は、別のグループを結成する。派閥対抗が起きるのは世の常で、まとまらないうちに、あるいは味が安定しないうちに小豆島のブランドは落ちてゆく。そうなれば、小豆島醤油の危機である。
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