◆緊急告知

関東通産局は、特定商取引法に違反する行為により、リゾートクラブを含む複合会員権を連鎖販売する㈱リゾネットに対し、15か月間、業務停止命令。会員を勧誘したら儲かるとか、会員はいつでも割引で泊まれるとかには要注意!
㈱リゾネットは当協会の「リゾネット」とは関係ない・・・e-Commerceを舞台にした新たな事案
 

1243066

クラブライフの薦め⑥

 【交通網充実、貴人の別荘・文人墨客の往来、進む都市化】

  開発ラッシュで生み出された所得の一部は塩原温泉にも撒かれた。また、鉄道が開通すると尾崎紅葉や奥蘭田の文章が媒体に乗って功を奏し、遠隔地東京からも集客可能となった。黒磯-塩原は26キロ。横川-軽井沢は碓氷峠経由で19キロ、アップダウンを考えると両者は似たようなもので、近いとは言えないのだけれども、頑張れば行ける距離である。明治の後半から大正にかけて、塩原は明るい兆しに包まれた。 

  ひとつは交通が便利になった。東那須野駅開業、1908年に西那須野~大田原間に那須人車軌道開通、関谷~西那須野間に塩原軌道が開通、1914年黒磯~那須間に乗合自動車が運行開始、1922年塩原軌道、電車に改め西那須野から塩原口まで開通(昭和10年廃止)した。 

  第二に、交通が便利になったせいか文人墨客の往来が散見されるようになった。夏目漱石は1912年に塩原に数日滞在したが、実は、夏目のまえに徳富蘇峰、長塚節・田山花袋・国木田独歩・尾崎紅葉・斉藤茂吉・与謝野鉄幹・晶子が、また夏目の後に大町桂月・会津八一、室生犀星、谷崎潤一郎、野口雨情、北原白秋などが、その滞在期間を差こそあれ宿泊したことが、塩原温泉旅館の自慢の種になっている。その夏目の門下となる森田草平が1908年(明治41年)に平塚雷鳥と尾頭峠で心中未遂を起こす。21歳の文学好み令嬢が5歳上の作家志望の妻子ある彼と恋仲になり家出、塩原温泉奥の尾頭峠で心中するも未遂に終わるも、師事した夏目漱石(当時朝日新聞文芸欄担当)の勧めで心中の顛末を小説「煤煙」とし朝日新聞に連載した。この効果はいかなる著名作家の小説よりもブランドの認知度を高めたであろう。 

  第三に若干の都市化が見られた。1902年の大山巌・03年の松方正義の別邸建築、同じく故三島通庸の別邸を遺族が献上して塩原御用邸を造営、1912年塩原水力電気株式会社が電灯の供給、ついに塩原にも明かりがついた。そのせいか、1918年に黒磯興業(株)が銀行業務を開業した。その翌年、塩原村が町制施行により塩原町となるのである。 

 【塩原温泉に団体宴会客が頻繁に到来】

 そして第四に大正から昭和初期にかけて、塩原の温泉街に団体宴会客が増加した。これは産業の発展・文人墨客の紹介・輸送の充実があろう。最盛期には芸妓が300名はいたという。「塩原もの語り館」にある往年の写真には「日本フェルト」の半纏を羽織った元気なリーダーが率いる宴会が映っていた。第1次大戦で輸入途絶した製紙用フェルトの生産のため、当時の主力紙業者が結集し、1917年、東京府下北豊島郡王子町に日本フエルト()を設立して操業開始し順調に成長した会社だ。その日本フェルトとすれば今なお健在である。この時期こそ絶好調の塩原温泉であった。 

  しかしながら好事魔多く、その暗示というにはいささか早すぎだが、1931年に黒磯駅前大火が起きて140戸焼失した。1939年に傷痍軍人塩原温泉療養所(現国立塩原温泉病院)開設。1941年に大東亜戦争が始まり、現在は碑があるのみだが那須塩原市上厚崎、埼玉(さきたま)に1942年飛行場開設、熊谷陸軍飛行学校(陸軍航空本部長隷下の学校)須野分教所として開設した。1944年には東京の国民学校児童が集団疎開してきた。こうなるととても温泉で宴会どころではない。  続く⑦

 

昭和初期の宴会団体客





荒野の那須野が原でドイツ流大規模農業を範とする開発が進み、華族農場や別荘ができ始める一方で、塩原温泉は宴会団体客が盛んに訪れた。芸者は300人を数えるという繁栄ぶりだった。


 こうした宴会団体客は1990年のバブル期でピークアウトし、温泉旅館の駐車場に観光バスが軒を並べる光景は、徐々に後退していった。そして、静けさを取り戻し始めた塩原には滞在客が似合う。
(注)以上の写真や画像はいずれも「塩原もの語り館」による。