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㈱リゾネットは当協会の「リゾネット」とは関係ない・・・e-Commerceを舞台にした新たな事案
 

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クラブライフの誘い⑤

 【水なく住人まばらで耕作不適な大扇状地】
 東京から見ても塩原温泉は遠い。浅草・新宿・東京の駅を羽田に見立てれば、上海に行くような感じかもしれない。いまの時代、こんなに時間をかけてまでして、塩原に行く価値があるのだろうか。団体宴会市場の平均的な判断はあまり好意的ではない。那須・塩原の事情に触れよう。日本の温泉旅館が抱える一般的な問題にも通ずる部分もある。

  那須の原は那珂川と箒川の間の扇状地で広さは約4ha18Hのゴルフ場で250個分以上、日本では最大級の扇状地である。その那須野ヶ原は扇状地特有の礫層が厚く堆積し、扇状地内の河川は水無川でほとんどが地面に潜り込み伏流する。要は、この広大な土地には飲み水に事欠きひとが住み着かず稲作は到底できない。その故か塩原は宇都宮藩の支配下にあり、また、那須にはこれといった大名がなく、大田原藩領や黒羽藩領と幕府天領が混在していた。那須野が原の貧しさは軽井沢のそれを相通じるところがあり興味深い。

  水さえあればという想いは、18-19世紀中葉の江戸時代にもあって、「那須塩原市の歴史」(那須塩原市)によれば、1658年新田開発の長島堀開削から1842年の米沢藩士加勢友助らの加治屋周辺開墾にいたるいくつかの事業が列挙してある。

  1394年からの応永年間に茶臼岳が大規模爆発、1659年地震で元湯温泉に大被害、1783年天明大飢饉が那須を襲い、1846年茶臼岳噴火し以来活動を持続、2011年の大震災もこの一端であろうか。火山噴火の岩石に保水力のない土壌で果実はそう多くはなかった。戊辰戦争で塩原温泉に旧幕府軍が駐屯、全村消失の被害にあいながら明治維新を迎えるものの、塩原の方が豊かであったと想像できよう。

 【欧州をベンチマークに重点賢人による大開発】
 しかしながら明治期になると、那須野が原はがぜん開発ラッシュを迎えた。この話は1880年(明治13年)土木県令と異名をとる三島通庸(後警視総監1888没)らの肇耕社、印南丈作・矢板武らの那須開墾社、両者による那須疏水のスピード通水(疏水本幹16.3km5ヶ月で完成)と語るのが通例のようだが、それはそれとして、戊辰戦争では官軍奥羽鎮撫総督参謀だった品川弥二郎(1900没)という人物がいる。あまり目立たないが長州派閥トップの山形有朋(1922年没)より5歳若いだけだ。3恩人にも数えられないが塩原の本当の恩人は彼ではなかろうか。維新後の明治3年(1870年)渡欧して普仏戦争を視察、ドイツ・イギリスに留学、帰国後に農商務大輔・駐独公使・宮内省御料局長・枢密顧問官・内務大臣を歴任、辞して西郷従道と国民協会を組織し多彩な仕事を手掛けるが、そのなかに産業組合(現在の農業系統組織の祖)の設立がある。ドイツ流の大規模農業を那須野が原で具現しようと考えてもおかしくはない。旧藩主の毛利家はじめ大山巌(日露戦争時満州軍総司令官・元老1916没)や西郷従道(海相・枢密顧問官1902没)、さらには島津家にも農場経営に参入させ、加えて御用邸の塩原・那須誘致を画策したのも御料局長の立場で活用してのことであろう。つまり那須野が原開発にコンセプトを確立、事後の展開を堅固なものにしたという点で特筆すべきと思われる。

  1886年(明治19年) 宇都宮~黒磯間の鉄道開通し、黒磯、那須(西那須野)駅が開業、新陸羽街道(国道4号)や塩原新道(塩原街道)そして鉄道からみた肋骨状の関連道路の整備が進む。その霊験あってか2年後に松方正義が始める。維新の功臣らによる農場経営に弾みがついた。続く⑥