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大連への珍道中

 「大連への珍道中」は、過年、弊協会事務局長が、はじめて、中国に行ったときの、紀行記録です。高校時代の同級生のグループが相集い、自分たちで計画し、実行したものです。完全な観光旅行ですが、オートノミーで実行したということで、ご参考までにUPしました。
 

桧枝岐・尾瀬紀行

 2016年7月24-25日、事務局長(常務理事)が、高校同期の友人数名と尾瀬沼に旅行したときの記録(桧枝岐・尾瀬紀行)です。
 

富山・越中おわら風の盆~五箇山への旅

 紀州鉄道と当協会との共催記録⇒紀州鉄道との共催イベントです。 
 内容は2015.09.02-09.03に実施した「富山・越中おわら風の盆~五箇山への旅」です。
 

すべてお手製のロシアグループ旅行

 前期高齢者の高校OB。同期生がたまたま集まってロシアにいくことになった。ただし、旅行代理店なし、通訳・ガイドなし、現地の移動や観劇などの予約はすべて自力で頑張った。だれも旅行関係に従事した経験者はいない。むろん、モスクワは全員初めて。
ⅰTさんの呼びかけ ミーティング
ⅱ成田に集合・出国 到着後 自力でホテルに
ⅲ到着後 プーシキン記念美術館
ⅳクレムリン 赤の広場 トレチャコフ美術館「見知らぬ女」
ⅴチャイコフスキー-モスクワ音楽院 サンクトペテルブルク移動
ⅵエルミタージュ美術館 ペテロパブロフスク要塞
ⅶエカテリーナ宮殿 ロシア美術館
ⅷペテルゴフ-夏の宮殿 バレエの鑑賞
ⅸ旧海軍省 イサク聖堂 モスクワへ移動
ⅹモスクワから成田着 帰国

 

リゾート放談

リゾートクラブ関係者からの投稿を掲載しています。
リゾート放談120819.pdf  タイムシェア商品のライフサイクルには市場サイクルと所有者サイクルがある
リゾート放談120712.pdf 松井大阪府知事のシンガポール・ラッフルズ病院視察
 
 
           Rue des Eaux, Paris, France
 

コラム掲載

 
当協会 前事務局長 木村讃氏のコラム「マンスリー サンズ トーク」を掲載しています。
マンスリーサンズトーク75 冬ぼたん
マンスリーサンズトーク74 小石川後楽園
マンスリーサンズトーク73 大阪の名所
マンスリーサンズトーク72 菊香る明治神宮に参拝
マンスリーサンズトーク71 エクシブ箱根離宮を楽しむ
マンスリーサンズトーク70 ホテルオークラで日本絵画を鑑賞
マンスリーサンズトーク69 東海道 品川宿
マンスリーサンズトーク68 江戸川橋に行ってみた
マンスリーサンズトーク67 千住の宿場町
マンスリーサンズトーク66 早稲田大学の歴史
マンスリーサンズトーク65 家族旅行記
マンスリーサンズトーク64 中山道の板橋宿を訪れました
マンスリーサンズトーク63 新宿は江戸4宿のひとつだった
マンスリーサンズトーク62 うまづくし江戸の初春
マンスリーサンズトーク61 谷中の本行寺
マンスリーサンズトーク60 坂東武者 平将門の話
マンスリーサンズトーク59 萬世橋と萬世橋駅について
マンスリーサンズトーク58 千曲川にあこがれています
マンスリーサンズトーク57 デトロイトが財政破綻した
マンスリーサンズトーク56 御宿の海女が江戸時代、世界への窓を開いた
マンスリーサンズトーク55  スカイツリー一周年・墨堤逍遥記
マンスリーサンズトーク54 本所・向島回遊記
マンスリーサンズトーク53 南房総旅日記
マンスリーサンズトーク52 京都散策
マンスリーサンズトーク51 浅草の天文台
マンスリーサンズトーク50 新年明けましておめでとうございます
木村讃氏のブログはこちらです。
 

日本のリゾートの発端 六甲・軽井沢・葉山・那須・・・

 本のリゾートは明治初期に渡来した何人かの外国人を嚆矢とします。
 幕末前後に中国紅茶などを貿易していた長崎のグラバー商会は神戸に出店、創業者の弟、英人アーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom、1846年-1918年)が赴任しました。1895(明治28年)に六甲山に1万坪の用地を確保し「101番屋敷」と通称する別荘を建て、また、1901(明治34)年に4ホールのゴルフコース(現神戸ゴルフ倶楽部六甲山ゴルフ場)を造りました。その後の山麓一帯の隆盛はいまさら記すまでもありません。
 また、英公使館宣教師兼建築技師の英人アレキサンダー・クロフト・ショー(Alexander Croft Shaw, 1846年-1902年)は、浅間大噴火後の痩地軽井沢(大塚山)に、1888年(明治21年)別荘を設け、夏季滞在を友人や日本の貴顕に薦めました。その約30年後、1919(大正8)年に、ゴルフ場(現12ホール・通称旧ゴルフ)がセントアンドルース生まれの英人トム・ニコルの設計で開設され、110年後の1997(平成9)年に新幹線が開通しました。
 冷房施設のない時代、それが可能であった人々にとっては、リゾートでの長期滞在は酷暑の都会から逃れる有効な手段であり、文字通り避暑機能を果たしたといえます。この2つの例は、大都会から最初の1000M(海抜)は「買い」の典型であります。東京から見た日光中禅寺や箱根もまたこれに匹敵するでしょう。
 さて、明治政府お雇い外人で東京医学校(後東大医学部)教師や宮内省侍医であった独人エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Balz、1849年-1913年)は草津の温泉を激賞したことでも有名ですが、保養地として葉山も推奨しました。そのゆえか1890(明治23)年に有栖川宮は別邸を設け、また1893(明治26)年にベルツ本人が移住(後のソニーコート葉山寮)、そして1894(明治27)年一色海岸に葉山御用邸が建設されました。保養地葉山が確立したといえます。
 那須もまた西欧好みですが、やや趣きをことにします。幕末の志士品川弥二郎(1843年-1900年/帝室御料局長を歴任)や松方正義(1835年-1924年/勧業局長兼フランス万国博覧会副総裁を歴任)らは、ドイツ等に留学の際に大農場経営を見聞しました。これを我が国に実現すべきとの提案は、明治政府の実力者大久保利通の強力な支持を得て、荒野の那須野ヶ原に疏水を引き、旧大名や幕末志士そして政府高官らがその開発者となり、「華族農場」が誕生しました。その縁か、旧塩原御用邸が1904年(明治37年)に、那須御用邸本邸が1926(大正15)年に建設され、リゾート那須の象徴になったのであります。
 この他、日本のリゾート開発にも、成功例や失敗例も含め、興味深い話がたくさんあります。いまはなくなりましたが、志賀高原ホテルは外貨獲得の手段として鉄道省が投資し、京都ホテルに運営を委託しました。スキーヤーズベッドのハシリと思われます。金融機関を持たなかった大倉喜八郎率いる大倉財閥は令息喜七郎も継承し、赤倉や雲仙あるいは川奈にリゾートホテルを設置しました。帝国ホテルやホテルオークラにも怨念を含めたエピソードが隠されています。いまアウトレットで稼ぐ軽井沢駅の南側の開発も堤康次郎と令息堤義明の2代にわたる心血の賜物であります。伊豆急と沿線の別荘開発は、その堤と確執のあった五島慶太(もとは信州青木村の農家小林菊右衛門の次男坊)の令息昇の感性の賜物であります。彼が手掛けた開発のon sightは端倪すべからざるものがあります。執念といえば、リゾート開発とはやや異なりますが、黒部立山アルペンルートに執念を燃やして創立した会社の名前を、立山黒部観光とせずに立山黒部貫光とした佐伯宗義などは、出藍の褒れというべきでしょう。
 失敗例もたくさんあります。旧北海道拓殖銀行が投融資した事例は枚挙にいとまがありません。旧日本興業銀行がシンジケートローンの主幹事を務めた東京ディズニーランドは大成功でしたが、他の案件はそうそう旨くは進みせんでした。なかなか難しいものがあります。おなじ「みずほ」に合流した当時のトップバンク第一勧業銀行も宮崎では煮え湯を飲まされています。
 基本は固定資産の流動化にあります。ある程度はMonte Carlo simulation+DCFでも説明できますが、現場は社会学でいうある種のcraze状況ですし、これに企業官僚制の病理も加わりますので、そうそう理性的に判断できません。この世に、観光(貫光)経営学があるとすれば、これが最も興味深いテーマのひとつなのです。ただ扱いにくい領域でもありますので挑戦する方は少ないようですが、アメリカのスキー場開発を見るに、この辺は用心深く、上手に稼いでいる例もあります。たぶんさんざん苦労したのでしょう。
 そして、戦前、有産階級にみられた保養地での長期の滞在は、戦後はその没落とともに週末滞在が主流となり、どちらかというと、日本においては、観光(Tour)の考え方が滞在(Stay)よりも優勢になっていると思われます。こうした市場の要求から、日本独特の会員制リゾートクラブが生まれてきました。 (文中敬称略・大谷私見)